先日の日曜日のNHK大河ドラマ真田丸、第21回放送は
「戦端」
ということで、沼田城の領有権を巡って、北条氏と真田氏が争う・・・しかし、それは秀吉の前で裁判をして!
という展開でした(^^
沼田城が誰の正当な持ち物か、という点はたしかにややこしくて、ある時期まではたしかに北条氏が制圧していましたが、真田パパは「北条氏に従います〜」というフリをしている間に沼田を手にいれて、その後、
そのまま上杉へついてしまう!
という無茶をやったので、揉めたのです。ああ、やっぱり草刈パパが悪いのね!(笑)
それはともかく、領有権が揉めてしまった以上は、秀吉が仲裁して・・・という流れになっているわけですが、いよいよ次回は、
戦国版リーガルハイ!
が開催される模様!
・・・このお話。結論から言うと、さらに揉めます(苦笑)
秀吉の裁定は、沼田は北条方のものとして、沼田城代に 猪俣邦憲を入れるのですが、ところが、この猪俣氏、勢い余って沼田の支城だった
名胡桃城
まで攻めてしまったので、この城は真田のもんじゃい!と話がややこしくなります。
なんと、これが引き金になって、かの有名な「小田原征伐」がはじまってしまい!さらには
のぼうの城
で、野村萬斎が踊りだすハメになるとは、誰も想像がつきません(^^;
(忍城は小田原の支城でしたので)
さて、というわけで。
この場面、「加沢記」ではどうなってるかを見てみます。
テキスト打ち直すのめんどくさいので、近代デジタルライブラリーより該当画面をパチッとな。
出典 近代デジタルライブラリー「加沢記」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020961
コマ68
「秀吉公御扱を以って、北条殿と昌幸公和談 付所々城代の事」
eine的に要約しまーす。
「北条殿が上洛しないので秀吉は、不審に思って、『いてもうたろうか、われ』と思っていたのだが、家康がいろいろと根回ししたので、北条氏照が上洛した。
でも、細かい領地の境目とかそんな話があるので、北条の老家臣である(板部岡)江雪斎が上洛して、 いろいろごにゃごにゃ言った。」
「そこで、秀吉は実況検分役を使わしたところ、大泉源三郎信幸とか、矢沢のおっちゃん(”沼田は渡さん”とずっと言ってるおじさん)とか 、出浦☆進とか(かっこいい!)が飲み食いさせて、領地をどこそこで区切ることがまあ、決まった」
「ようするに、名胡桃城から3分の1は、真田領、それ以外の3分の2は北条領、ということで両者は和睦したので、秀吉の使いは帰った」
「それから、誰をどこに配置するか、いろいろ采配したよ」
というお話。
あれ?!
源次郎のリーガルハイは!!!!
えーっと、三谷さんの脚本が、日曜日にどうなるかはさておき、加沢記的には、
頑張ったのは、大泉お兄ちゃんと、矢沢のおっちゃんと、出浦さん
みたいです。 あれれ?!
2016年5月31日火曜日
2016年5月6日金曜日
【名所】 明石城へ行ってきました! 櫓公開で大興奮!
こんにちは
GWは、遠出しようかと迷ったのですが、あえての姫路城ではなく、ちょびっとマイナーな明石城に行ってきました!
明石城は、明石駅からすぐ歩いていけるし、公園にもなっているので遊びに行くにはもってこいですが、「お城」としては、天守がなく、いわゆる見どころが少なそうなので、城郭好きさんには物足りないかもしれません。
でも!
今回のGWでは、櫓の中が公開されていたりして、かなり楽しめました。
こちらは坤(ひつじさる)櫓。
赤い格子が見えますか?!
こちらの面は、千鳥破風と唐破風が合体したような構成になっています。
なんでも、この櫓凝った造りになっているのは「伏見桃山城」からの移築だからだそうです。
なので、「秀吉」が好んだデザインになっているのだとか(^^
さて、やぐらの上部には上がれなかったのですが、内部が特別に公開されていて、いろいろな資料を見ることができました!
特に、古瓦が多数展示されていて、元城主の小笠原氏の「三階菱」の家紋が入った鬼瓦などを堪能(^^
実はこの坤櫓、明石城では天守が作られなかったので、ほぼ天守の代わりとして用いられていたようです。
なので、デザインや格式がちょっと頑張ってる感があるのかもしれません。
一方、こちらは現存する櫓のもうひとつのほう「巽櫓」です。やっぱり坤櫓よりかは、格式が下というか、ちょっとだけチャちい感じが(^^;;
その代わり、この付近には展望台があって、明石駅方面を見渡すことができます。
歴史好きとしては、復元された塀の造りが気になって、思わずパチリ。
しっくいの塗り固め具合が、かの姫路城の復元工事を思い起こさせます!!
(景色より、しっくい?!)
というわけで、明石城は、天守こそないものの、城郭や城壁はなかなか味わい深いので、ぜひ姫路城と比べながら訪れてみてくださいね〜。
GWは、遠出しようかと迷ったのですが、あえての姫路城ではなく、ちょびっとマイナーな明石城に行ってきました!
明石城は、明石駅からすぐ歩いていけるし、公園にもなっているので遊びに行くにはもってこいですが、「お城」としては、天守がなく、いわゆる見どころが少なそうなので、城郭好きさんには物足りないかもしれません。
でも!
今回のGWでは、櫓の中が公開されていたりして、かなり楽しめました。
こちらは坤(ひつじさる)櫓。
赤い格子が見えますか?!
こちらの面は、千鳥破風と唐破風が合体したような構成になっています。
なんでも、この櫓凝った造りになっているのは「伏見桃山城」からの移築だからだそうです。
なので、「秀吉」が好んだデザインになっているのだとか(^^
さて、やぐらの上部には上がれなかったのですが、内部が特別に公開されていて、いろいろな資料を見ることができました!
特に、古瓦が多数展示されていて、元城主の小笠原氏の「三階菱」の家紋が入った鬼瓦などを堪能(^^
実はこの坤櫓、明石城では天守が作られなかったので、ほぼ天守の代わりとして用いられていたようです。
なので、デザインや格式がちょっと頑張ってる感があるのかもしれません。
一方、こちらは現存する櫓のもうひとつのほう「巽櫓」です。やっぱり坤櫓よりかは、格式が下というか、ちょっとだけチャちい感じが(^^;;
その代わり、この付近には展望台があって、明石駅方面を見渡すことができます。
歴史好きとしては、復元された塀の造りが気になって、思わずパチリ。
しっくいの塗り固め具合が、かの姫路城の復元工事を思い起こさせます!!
(景色より、しっくい?!)
というわけで、明石城は、天守こそないものの、城郭や城壁はなかなか味わい深いので、ぜひ姫路城と比べながら訪れてみてくださいね〜。
2016年3月22日火曜日
「黙れ小童!!!!」 真田丸の室賀さんがもう見られないので、加沢記読んじゃいます!
NHK大河ドラマ、「真田丸」の「祝言」の回。今回もドキドキハラハラ、笑いあり、サスペンスありの神回でしたが、ひとーつだけとっても重要なことがあります。
それは!
それは!!!
”黙れ小童(こわっぱ)”で日本中の真田丸ファンを沸かせてくださった
室賀どのが死んじゃった!!!!
ことです。しくしく(><;)
というわけで、”歴史まにあ”なこのブログとしては、室賀殿こと「室賀正武」さまを偲んで、あえての
『原作で読みたい大河ドラマ』
ということで、いつものやつ、やっちゃいます。
近代デジタルライブラリーさんより、 加沢記
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020961
「室賀合戦のこと」(59コマ)
はじまりはじまり!!!
\\\\\\\\\\
時は天正11年。家康から信濃一国を領土として認められようとしていた室賀どの。一方、信濃の国中を従えようとしていた真田阿波守は「室賀を討つ」と、室賀の城へ押し寄せて一発かませます。
ところが、この時の戦いでは勝敗が決せず、「講和」ということになってしまいます。
しかし、そこはわれらが室賀どの。けして真田阿波守の家臣になったわけではなかったのでした。
室賀入道、真田に屈することを無念に思ひ、翌天正十二年申の六月、高井彦右衛門尉を以って遠州へ申し上げければ、家康公より何卒真田を打つべしと仰せ越せられければ、入道不斜悦び、禰々以て上田へ見舞懇切しけり。
室賀殿は、天正12年に、家臣を遠江の家康の元へ遣ると、家康より「真田を討て」という命令をもらい、超喜んだのです。
或時上方より囲碁の上手上田へ来りければ、室賀入道を招請有ければ入道能時節と心得、日限を定められて同苗孫右衛門を以て来月七日真田が居城へ其会に参候、其時昌幸を討取らんと存候間、御加勢被下候様にと鳥居氏の方へ申し遣しけれども、孫右衛門内々房州へ志を通じたりし故、直に上田に来り此由申しけり。
あるとき、関西から囲碁の名人が上田に来たというので、室賀殿は「これはチャンスだ」と考え、日時を決めて「囲碁の会」の折りに昌幸を討ち取ろうと策略し、同族の室賀孫右衛門にその段取りをさせようとしていたのですが、孫右衛門は、真田側に通じており、そのまま上田に行って暗殺計画を漏らしてしまったのです。
昌幸公悦び、孫右衛門を馳走してぞ帰しける。入道仕済したりと思ひ、家の子桑名八之助、相澤五左衛門尉、堀田久兵衛など相随ひ上田へ被参りければ兼ねて用意の事なりければ書院に招請して囲碁をぞ始めける。
真田昌幸は、孫右衛門の報告を喜び、充分に労って帰しました。室賀殿は、「これで準備は整った」と思い、家臣などを連れて上田へ現れ、用意の通り囲碁を始めたのでした。
其時、長野舎人木村戸右衛門討手に極め、相圖は禰津宮内太夫麻利子藤八郎、長命寺、安楽寺なり。長野木村次の間より太刀抜き出、室賀兵部太夫を無情も殺しけり。桑那相澤堀田聞より早く殿中に切入って散々に戦ひける。縦令三項羽が勇を顕したりと雖も、多勢の敵に取巻かれ、遂に生け捕りにぞ成りにける。右三人後には心を変じて真田に仕へ、無二の忠をぞ尽しける。此時八之助深手を負ふ。さて室賀にては此由を聞き妻子共取者も不取敢早々甲州へ落行ける。
その時、真田側の長野と木村が隣の部屋から乱入し、室賀殿を無情にも殺してしまったのです。室賀殿の従者の三人も、これを聞きつけ戦いましたが、大勢に取り囲まれてついに生け捕りにされてしまったのでした。
この三人はのちに心を入れ替え、真田の忠実な家臣となったのですが、室賀の国もとでは、妻子や関係者はみな、取るものもとらずすぐに甲斐の国へと逃げてゆきました。
\\\\\\\\\\
とまあ、原作ではこんな感じです。
真田パパは、何をしとったんか全然出てこないし、愛しの出浦様も
まったく出てきません!!!!!
ましてや、きりちゃんは姿形もありません!!!!
なーんて(^^
大河ドラマ、真田丸での「祝言」シーンはなかったですが、「囲碁ネタ」は本当だったのね!ということがわかったところで、ちょっと満足ですね!
それは!
それは!!!
”黙れ小童(こわっぱ)”で日本中の真田丸ファンを沸かせてくださった
室賀どのが死んじゃった!!!!
ことです。しくしく(><;)
というわけで、”歴史まにあ”なこのブログとしては、室賀殿こと「室賀正武」さまを偲んで、あえての
『原作で読みたい大河ドラマ』
ということで、いつものやつ、やっちゃいます。
近代デジタルライブラリーさんより、 加沢記
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020961
「室賀合戦のこと」(59コマ)
はじまりはじまり!!!
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時は天正11年。家康から信濃一国を領土として認められようとしていた室賀どの。一方、信濃の国中を従えようとしていた真田阿波守は「室賀を討つ」と、室賀の城へ押し寄せて一発かませます。
ところが、この時の戦いでは勝敗が決せず、「講和」ということになってしまいます。
しかし、そこはわれらが室賀どの。けして真田阿波守の家臣になったわけではなかったのでした。
室賀入道、真田に屈することを無念に思ひ、翌天正十二年申の六月、高井彦右衛門尉を以って遠州へ申し上げければ、家康公より何卒真田を打つべしと仰せ越せられければ、入道不斜悦び、禰々以て上田へ見舞懇切しけり。
室賀殿は、天正12年に、家臣を遠江の家康の元へ遣ると、家康より「真田を討て」という命令をもらい、超喜んだのです。
或時上方より囲碁の上手上田へ来りければ、室賀入道を招請有ければ入道能時節と心得、日限を定められて同苗孫右衛門を以て来月七日真田が居城へ其会に参候、其時昌幸を討取らんと存候間、御加勢被下候様にと鳥居氏の方へ申し遣しけれども、孫右衛門内々房州へ志を通じたりし故、直に上田に来り此由申しけり。
あるとき、関西から囲碁の名人が上田に来たというので、室賀殿は「これはチャンスだ」と考え、日時を決めて「囲碁の会」の折りに昌幸を討ち取ろうと策略し、同族の室賀孫右衛門にその段取りをさせようとしていたのですが、孫右衛門は、真田側に通じており、そのまま上田に行って暗殺計画を漏らしてしまったのです。
昌幸公悦び、孫右衛門を馳走してぞ帰しける。入道仕済したりと思ひ、家の子桑名八之助、相澤五左衛門尉、堀田久兵衛など相随ひ上田へ被参りければ兼ねて用意の事なりければ書院に招請して囲碁をぞ始めける。
真田昌幸は、孫右衛門の報告を喜び、充分に労って帰しました。室賀殿は、「これで準備は整った」と思い、家臣などを連れて上田へ現れ、用意の通り囲碁を始めたのでした。
其時、長野舎人木村戸右衛門討手に極め、相圖は禰津宮内太夫麻利子藤八郎、長命寺、安楽寺なり。長野木村次の間より太刀抜き出、室賀兵部太夫を無情も殺しけり。桑那相澤堀田聞より早く殿中に切入って散々に戦ひける。縦令三項羽が勇を顕したりと雖も、多勢の敵に取巻かれ、遂に生け捕りにぞ成りにける。右三人後には心を変じて真田に仕へ、無二の忠をぞ尽しける。此時八之助深手を負ふ。さて室賀にては此由を聞き妻子共取者も不取敢早々甲州へ落行ける。
その時、真田側の長野と木村が隣の部屋から乱入し、室賀殿を無情にも殺してしまったのです。室賀殿の従者の三人も、これを聞きつけ戦いましたが、大勢に取り囲まれてついに生け捕りにされてしまったのでした。
この三人はのちに心を入れ替え、真田の忠実な家臣となったのですが、室賀の国もとでは、妻子や関係者はみな、取るものもとらずすぐに甲斐の国へと逃げてゆきました。
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とまあ、原作ではこんな感じです。
真田パパは、何をしとったんか全然出てこないし、愛しの出浦様も
まったく出てきません!!!!!
ましてや、きりちゃんは姿形もありません!!!!
なーんて(^^
大河ドラマ、真田丸での「祝言」シーンはなかったですが、「囲碁ネタ」は本当だったのね!ということがわかったところで、ちょっと満足ですね!
2016年2月23日火曜日
忍者、見つかりました! 〜88軒も見つかった忍者の子孫〜
先日も、滋賀県で忍者の子孫を探しているニュースをこのブログで取り上げたのですが、なんと!
見つかった(笑)
そうです。
滋賀県甲賀市、88世帯で忍者の子孫を発見
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160222-00005257-lmaga-l25
ニュースによると、甲賀五十三家にアンケートを取って、忍者にまつわる資料などが残っていないかどうか尋ねたそうなのですが、
古文書!
手裏剣!
忍者しか使わない家紋入り鎧!
などが見つかったそうです。うらやましいなあ!
前回のブログに、忍者の可能性がある53の名字を掲載しているのですが、
http://jpn-history.blogspot.jp/2016/01/blog-post_30.html
残念ながらeineさんの家は忍者とは無縁のようで、もし滋賀県にゆかりのあるみなさんがおられれば、一度忍者かどうか、名字を付き合わせてみてくださいね!!
ちなみに、忍者の子孫だと示す文書が出てきたおたくのご主人は、今は農業で、
「忍者の子孫だとは、まったく知らなかった」
とおっしゃっているとか!
ぜーんぜん気付かずに暮らしておられる子孫の方も、たくさんいそうですね!
2016年2月18日木曜日
真田丸のお姉ちゃん、「まつ」が行方不明になる件の元ネタが話題に。 〜加沢記を読んでみましょう〜
NHK大河ドラマの真田丸はとっても人気のようですが、(もちろんeineも見ています)前回の土曜日の放送では、
安土から逃げる際に、真田信繁のお姉ちゃんの「まつ」が湖に飛び込んで行方不明になる話
をやってました。
なんとまあ、お姉ちゃん「松」こと木村佳乃さんは、
記憶喪失
になっている場面も出てきて、かなりドラマチックだったのですが、どうも脚本だけじゃなくて本当に行方不明になっていた説があるようで。
村松殿は、 寛永7年(1630)6月20日に66才で亡くなって、松代の長国寺に葬られたらしいので、たしかにあのまま滋賀県琵琶湖に落ちて死んでいたら、話が合いません。
そのあたりの経緯を、「加沢記」から読んでみたいと思います。
近代デジタルライブラリー「加沢記」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020961
まず、加沢記について説明しておきましょう。
沼田真田藩に、加沢平左衛門という藩士がいて、江戸初期の人です。話の内容は戦国時代からの真田氏の動乱の歴史をまとめたものですが、本人が見聞きしたというよりも、老人たちから聞き取りをして、史料を集めたり現地を歩いたりしながら編纂したものだと考えられています。
記録されている期間は、天文10年(1541)〜天正18年(1590)で、49年間の真田の歴史をまとめています。
上記リンクでは、51コマと52コマのあたりが「まつ」が行方不明になった話が出てきます。
信長が死んで、安土が大変なことになった後の部分です。
\\\\\\\\\\
「 ・・・安土へ遣わされける御娘子様の御行方(衛)無りければ、昌幸公御母公の御嘆き更に止時なかりければ御一門家老の人々(略)御落涙の外はなかりけり」
安土城へ人質になっていた松様の行方がわからないので、昌幸公や母君のお嘆きは止まることがなかった。一族や家中の人たちもただ、涙を流すだけだった。
\\\\\\\\\\
「 翌年の春、桑名の渡し守が許へ下郎等走り入りて休息しければ、二十斗(ばかり)の女房走り出で、(略)さめざめと泣いて信濃と聞くはなつかしや、自も信濃の者なるが子細有て此国に有つるが、本国なれば母を一人持侍る、在所は上田の城と御申し有けるが取直し上田の城町の喜兵衛と申す者の所へ御届候へとて紙包ひとつ渡されける」
翌年の春、桑名の渡し守の所で足軽たちが休息していると二十歳くらいの女性が走り出て、涙を流して「みなさんは信濃からですか。なつかしいことです。私も信濃の出ですが、いろいろあってこの土地におります。実家には母が一人いるはずです。出身は上田城なので、上田の城下にいる喜兵衛という人間にこれを届けてはくれませんか」と手紙をお預けになった。
\\\\\\\\\\
もう、これでこの女性の正体がわかりますね!行方不明になっていた「松」こと木村佳乃さんです!!
これで、この足軽は言われた通りに上田の城へ手紙を持ち帰り、報告するのでした。
しかし、喜兵衛とは言われたものの足軽大将は怪訝に思います。
「いや、喜兵衛とはその女が申したらしいが、城主昌幸さま以外に「喜兵衛」と名乗る者はいないはずだ。」
慌てて彼が紙包みを開けると、そこにはなんと姫君まつ様からの文が入っているではあーりませんか!!
☆なかなか読ませる場面ですが、真田昌幸は「武藤喜兵衛」の名で武田信玄に仕えていたのです。そのあたりを絡ませてくるところが、ちょっとにくいね。
\\\\\\\\\\
「・・・早々桑名へ御人を被遣、渡し守に御褒美被下、御迎取りあそばしける。渡し守安土の乱に奪捕ければ大切に存じ深く隠密したりけり、あさましき有様にて二とせのうきめのほど、思いやられて御いたわしく聞く人ことに哀は増すばかり。後に小山田殿の御内室に成り給ひけるとなり」
さっそく桑名へ人をやって、渡し守に褒美をつかわし、(姫を)お迎えになった。渡し守は安土の乱の時に(姫を)捕まえたのだけれども、大切に思って隠していたのである。ひどい状況で二年も大変な目に遭ったのだと、その話を聞いた人はみな哀れに思うばかりであった。彼女は後に、小山田さまの奥さんになったそうである。
・・・ん?
・・・んんん?
・・・んんんんん???
最後にさらっと恐ろしいことが書いてあるのに、みなさんは気づきましたか?(笑)
まつさま、まだこの時は小山田さまとは結ばれてないらしいです!!!(爆)
さすがは三谷さん。話がおもしろくなるように、書き換えてますねーーーー!!!
安土から逃げる際に、真田信繁のお姉ちゃんの「まつ」が湖に飛び込んで行方不明になる話
をやってました。
なんとまあ、お姉ちゃん「松」こと木村佳乃さんは、
記憶喪失
になっている場面も出てきて、かなりドラマチックだったのですが、どうも脚本だけじゃなくて本当に行方不明になっていた説があるようで。
村松殿は、 寛永7年(1630)6月20日に66才で亡くなって、松代の長国寺に葬られたらしいので、たしかにあのまま滋賀県琵琶湖に落ちて死んでいたら、話が合いません。
そのあたりの経緯を、「加沢記」から読んでみたいと思います。
近代デジタルライブラリー「加沢記」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020961
まず、加沢記について説明しておきましょう。
沼田真田藩に、加沢平左衛門という藩士がいて、江戸初期の人です。話の内容は戦国時代からの真田氏の動乱の歴史をまとめたものですが、本人が見聞きしたというよりも、老人たちから聞き取りをして、史料を集めたり現地を歩いたりしながら編纂したものだと考えられています。
記録されている期間は、天文10年(1541)〜天正18年(1590)で、49年間の真田の歴史をまとめています。
上記リンクでは、51コマと52コマのあたりが「まつ」が行方不明になった話が出てきます。
信長が死んで、安土が大変なことになった後の部分です。
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「 ・・・安土へ遣わされける御娘子様の御行方(衛)無りければ、昌幸公御母公の御嘆き更に止時なかりければ御一門家老の人々(略)御落涙の外はなかりけり」
安土城へ人質になっていた松様の行方がわからないので、昌幸公や母君のお嘆きは止まることがなかった。一族や家中の人たちもただ、涙を流すだけだった。
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「 翌年の春、桑名の渡し守が許へ下郎等走り入りて休息しければ、二十斗(ばかり)の女房走り出で、(略)さめざめと泣いて信濃と聞くはなつかしや、自も信濃の者なるが子細有て此国に有つるが、本国なれば母を一人持侍る、在所は上田の城と御申し有けるが取直し上田の城町の喜兵衛と申す者の所へ御届候へとて紙包ひとつ渡されける」
翌年の春、桑名の渡し守の所で足軽たちが休息していると二十歳くらいの女性が走り出て、涙を流して「みなさんは信濃からですか。なつかしいことです。私も信濃の出ですが、いろいろあってこの土地におります。実家には母が一人いるはずです。出身は上田城なので、上田の城下にいる喜兵衛という人間にこれを届けてはくれませんか」と手紙をお預けになった。
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もう、これでこの女性の正体がわかりますね!行方不明になっていた「松」こと木村佳乃さんです!!
これで、この足軽は言われた通りに上田の城へ手紙を持ち帰り、報告するのでした。
しかし、喜兵衛とは言われたものの足軽大将は怪訝に思います。
「いや、喜兵衛とはその女が申したらしいが、城主昌幸さま以外に「喜兵衛」と名乗る者はいないはずだ。」
慌てて彼が紙包みを開けると、そこにはなんと姫君まつ様からの文が入っているではあーりませんか!!
☆なかなか読ませる場面ですが、真田昌幸は「武藤喜兵衛」の名で武田信玄に仕えていたのです。そのあたりを絡ませてくるところが、ちょっとにくいね。
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「・・・早々桑名へ御人を被遣、渡し守に御褒美被下、御迎取りあそばしける。渡し守安土の乱に奪捕ければ大切に存じ深く隠密したりけり、あさましき有様にて二とせのうきめのほど、思いやられて御いたわしく聞く人ことに哀は増すばかり。後に小山田殿の御内室に成り給ひけるとなり」
さっそく桑名へ人をやって、渡し守に褒美をつかわし、(姫を)お迎えになった。渡し守は安土の乱の時に(姫を)捕まえたのだけれども、大切に思って隠していたのである。ひどい状況で二年も大変な目に遭ったのだと、その話を聞いた人はみな哀れに思うばかりであった。彼女は後に、小山田さまの奥さんになったそうである。
・・・ん?
・・・んんん?
・・・んんんんん???
最後にさらっと恐ろしいことが書いてあるのに、みなさんは気づきましたか?(笑)
まつさま、まだこの時は小山田さまとは結ばれてないらしいです!!!(爆)
さすがは三谷さん。話がおもしろくなるように、書き換えてますねーーーー!!!
2016年2月8日月曜日
日本で最初のゾンビ?!あるいは日本式フランケンシュタインの謎を追え! japanese zombie!
こんにちは。日本の歴史の変なところをツツいているeineです(^^
先日から、このブログの姉妹ブログの「名字まにあ」のほうで、佐藤さんの名字のルーツについて調べていたのですが、その中で、
かなーり気になる変てこな話
を見つけてしまったので、今日はそんな話を。
なんと!日本で最初のゾンビ・フランケンシュタインのお話です。
そのお話、もともとは佐藤さんのルーツを調べていたときに、ネタが上がってきました。
佐藤さんのルーツ
http://myoujimania.blogspot.jp/2016/01/blog-post_29.html
この中に、歴史上の有名人「西行法師」という人がいるのですが、この方にまつわるこんな話があるのです。
撰集抄「西行高野山において人形をつくる事」(第5)
” 西行が高野山の奥に住んでいたころのこと。
友人が遠くへ行ってしまってさみしくなったので、風流を理解してくれるトモダチがほしいなあ、と思って鬼が人骨を集めて人を作るように、トモダチを作ってみようと考えるようになった。
作り方の術は、人から聞いていたので、野原で骨を拾って並べて作ってみたが、人間の可たちのようで、やっぱりどこか違う。
声は楽器が鳴っているようだし、壊れた笛がひゅーひゅーなるだけのように声を出すだけだった。
ぶっちゃけうまくいかなかったので壊してしまおうとも思ったが、それも人殺しみたいだし、結局高野山の山奥へ連れて行ってほったらかしにしてしまった。
あとで、伏見中納言に、うまい人造人間の作り方を尋ねたら、私のやった方法をひとしきり聞いた後、
「だいたいOKだけど、香を焚いたら仏の功徳で魔物が逃げてしまうので、香をつかわず沈と乳を代わりに焚けばうまくいくよ」
と教えてくれた。
まじっすか。”
\\\\\\\\\\
訳は、eineさんの超訳です(^^;
西行法師は、本名を佐藤義清という武士で、平安末から鎌倉時代にかけて活躍しました。
藤原姓武士の総本家である、藤原秀郷の9世孫だそうなので、かなり本流の藤原氏ですね。
もとは鳥羽上皇の北面の武士でもありましたが、出家後は放浪の旅に出たそうで。
「撰集抄」は、西行作とされていますが、実際には作者不詳だそうです。
・・・とまあ、ここまでは歴史マニアとしては入門編ですね。
ここからはちょっとだけ背伸びして大学レベルのお話を添付しておきます。
岩手大学教育学部研究年報 より 中村一基さんの論文
「中世の人造人間説話の変容をめぐって」
http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/1769/4/erar-v61n1p98-106.pdf
こちらの論文では、西行の人造人間(ゾンビちゃん)の話にいくつかのポイントがあることを教えてくれます。
1)高野山に納骨する風習があり、それを西行が担当していたらしいこと。
2)反魂の術、というアンチ仏教的なワザ(おそらくは陰陽的な?)があったこと。
また、論文には、安倍晴明が死んで復活する話や、芥川龍之介の”羅生門”に出てくる老婆が髪を抜こうとした遺体の話まで、死者と人造人間についてのいろんな考察が出てきます。
ちょっとおもしろい(^^
ちなみに、どうしてもゾンビを作りたい方は、
早稲田大学さんのページ
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he12/he12_01708/index.html
がよみやすいほうだと思われます。うふふ。
先日から、このブログの姉妹ブログの「名字まにあ」のほうで、佐藤さんの名字のルーツについて調べていたのですが、その中で、
かなーり気になる変てこな話
を見つけてしまったので、今日はそんな話を。
なんと!日本で最初のゾンビ・フランケンシュタインのお話です。
そのお話、もともとは佐藤さんのルーツを調べていたときに、ネタが上がってきました。
佐藤さんのルーツ
http://myoujimania.blogspot.jp/2016/01/blog-post_29.html
この中に、歴史上の有名人「西行法師」という人がいるのですが、この方にまつわるこんな話があるのです。
撰集抄「西行高野山において人形をつくる事」(第5)
” 西行が高野山の奥に住んでいたころのこと。
友人が遠くへ行ってしまってさみしくなったので、風流を理解してくれるトモダチがほしいなあ、と思って鬼が人骨を集めて人を作るように、トモダチを作ってみようと考えるようになった。
作り方の術は、人から聞いていたので、野原で骨を拾って並べて作ってみたが、人間の可たちのようで、やっぱりどこか違う。
声は楽器が鳴っているようだし、壊れた笛がひゅーひゅーなるだけのように声を出すだけだった。
ぶっちゃけうまくいかなかったので壊してしまおうとも思ったが、それも人殺しみたいだし、結局高野山の山奥へ連れて行ってほったらかしにしてしまった。
あとで、伏見中納言に、うまい人造人間の作り方を尋ねたら、私のやった方法をひとしきり聞いた後、
「だいたいOKだけど、香を焚いたら仏の功徳で魔物が逃げてしまうので、香をつかわず沈と乳を代わりに焚けばうまくいくよ」
と教えてくれた。
まじっすか。”
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訳は、eineさんの超訳です(^^;
西行法師は、本名を佐藤義清という武士で、平安末から鎌倉時代にかけて活躍しました。
藤原姓武士の総本家である、藤原秀郷の9世孫だそうなので、かなり本流の藤原氏ですね。
もとは鳥羽上皇の北面の武士でもありましたが、出家後は放浪の旅に出たそうで。
「撰集抄」は、西行作とされていますが、実際には作者不詳だそうです。
・・・とまあ、ここまでは歴史マニアとしては入門編ですね。
ここからはちょっとだけ背伸びして大学レベルのお話を添付しておきます。
岩手大学教育学部研究年報 より 中村一基さんの論文
「中世の人造人間説話の変容をめぐって」
http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/1769/4/erar-v61n1p98-106.pdf
こちらの論文では、西行の人造人間(ゾンビちゃん)の話にいくつかのポイントがあることを教えてくれます。
1)高野山に納骨する風習があり、それを西行が担当していたらしいこと。
2)反魂の術、というアンチ仏教的なワザ(おそらくは陰陽的な?)があったこと。
また、論文には、安倍晴明が死んで復活する話や、芥川龍之介の”羅生門”に出てくる老婆が髪を抜こうとした遺体の話まで、死者と人造人間についてのいろんな考察が出てきます。
ちょっとおもしろい(^^
ちなみに、どうしてもゾンビを作りたい方は、
早稲田大学さんのページ
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he12/he12_01708/index.html
がよみやすいほうだと思われます。うふふ。
2016年2月4日木曜日
【名所】 武家屋敷にハマっています 〜三草藩旧尾崎邸へ行ってきました〜
こんにちは
うちの家は、平成になってから建てられた建物なのですが、おもしろいことに「書院造り」になっていて、付け書院が窓側に作られているんです。
そんなことから、昔の建物とか、武家屋敷の造りとかに興味があるのですが、今回は、兵庫県加東市の
三草藩武家屋敷(旧尾崎邸)
へ遊びに行ってきました。
武家屋敷というのは、本当は格式の高い武士のお屋敷で、中級以下の藩士の屋敷は「侍屋敷」というそうですが、今となってはほんまものの武家屋敷がほとんど残っていないので、侍屋敷のほうが一般的になっているそうです。
三草藩(兵庫県加東市)は小さな藩なので、武家屋敷といってもこじんまりとしていますが、それでも玄関には式台がついていてそれなりの格式を備えています。
上の写真で、玄関のような入り口が右と左と並んでいるのがわかりますか?
左が客人を招くときの式台、右が通常の出入り口になっていて、かまどのある台所へ直結しています。
全体的には、平屋でコンパクトな感じ。
でも、
けっこう広い中庭があって、井戸や、写っていませんが納屋(蔵)のようなものが付随しています。
詳しい住所などのデータはこちらに。↓
じゃらんnet 三草藩武家屋敷
古い武家屋敷などを見ていると、日本のおうちの基本的な造りがとても共通していることがよくわかりますね。
だいたい、入って右側に台所や風呂があって、左側に2×2を基本にして畳の間が4つ並んでいる、という感じ。
今度は別の武家屋敷におじゃまして比較してみますね。
うちの家は、平成になってから建てられた建物なのですが、おもしろいことに「書院造り」になっていて、付け書院が窓側に作られているんです。
そんなことから、昔の建物とか、武家屋敷の造りとかに興味があるのですが、今回は、兵庫県加東市の
三草藩武家屋敷(旧尾崎邸)
へ遊びに行ってきました。
武家屋敷というのは、本当は格式の高い武士のお屋敷で、中級以下の藩士の屋敷は「侍屋敷」というそうですが、今となってはほんまものの武家屋敷がほとんど残っていないので、侍屋敷のほうが一般的になっているそうです。
三草藩(兵庫県加東市)は小さな藩なので、武家屋敷といってもこじんまりとしていますが、それでも玄関には式台がついていてそれなりの格式を備えています。
上の写真で、玄関のような入り口が右と左と並んでいるのがわかりますか?
左が客人を招くときの式台、右が通常の出入り口になっていて、かまどのある台所へ直結しています。
全体的には、平屋でコンパクトな感じ。
でも、
けっこう広い中庭があって、井戸や、写っていませんが納屋(蔵)のようなものが付随しています。
詳しい住所などのデータはこちらに。↓
じゃらんnet 三草藩武家屋敷
古い武家屋敷などを見ていると、日本のおうちの基本的な造りがとても共通していることがよくわかりますね。
だいたい、入って右側に台所や風呂があって、左側に2×2を基本にして畳の間が4つ並んでいる、という感じ。
今度は別の武家屋敷におじゃまして比較してみますね。
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