2016年2月23日火曜日
忍者、見つかりました! 〜88軒も見つかった忍者の子孫〜
先日も、滋賀県で忍者の子孫を探しているニュースをこのブログで取り上げたのですが、なんと!
見つかった(笑)
そうです。
滋賀県甲賀市、88世帯で忍者の子孫を発見
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160222-00005257-lmaga-l25
ニュースによると、甲賀五十三家にアンケートを取って、忍者にまつわる資料などが残っていないかどうか尋ねたそうなのですが、
古文書!
手裏剣!
忍者しか使わない家紋入り鎧!
などが見つかったそうです。うらやましいなあ!
前回のブログに、忍者の可能性がある53の名字を掲載しているのですが、
http://jpn-history.blogspot.jp/2016/01/blog-post_30.html
残念ながらeineさんの家は忍者とは無縁のようで、もし滋賀県にゆかりのあるみなさんがおられれば、一度忍者かどうか、名字を付き合わせてみてくださいね!!
ちなみに、忍者の子孫だと示す文書が出てきたおたくのご主人は、今は農業で、
「忍者の子孫だとは、まったく知らなかった」
とおっしゃっているとか!
ぜーんぜん気付かずに暮らしておられる子孫の方も、たくさんいそうですね!
2016年2月18日木曜日
真田丸のお姉ちゃん、「まつ」が行方不明になる件の元ネタが話題に。 〜加沢記を読んでみましょう〜
NHK大河ドラマの真田丸はとっても人気のようですが、(もちろんeineも見ています)前回の土曜日の放送では、
安土から逃げる際に、真田信繁のお姉ちゃんの「まつ」が湖に飛び込んで行方不明になる話
をやってました。
なんとまあ、お姉ちゃん「松」こと木村佳乃さんは、
記憶喪失
になっている場面も出てきて、かなりドラマチックだったのですが、どうも脚本だけじゃなくて本当に行方不明になっていた説があるようで。
村松殿は、 寛永7年(1630)6月20日に66才で亡くなって、松代の長国寺に葬られたらしいので、たしかにあのまま滋賀県琵琶湖に落ちて死んでいたら、話が合いません。
そのあたりの経緯を、「加沢記」から読んでみたいと思います。
近代デジタルライブラリー「加沢記」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020961
まず、加沢記について説明しておきましょう。
沼田真田藩に、加沢平左衛門という藩士がいて、江戸初期の人です。話の内容は戦国時代からの真田氏の動乱の歴史をまとめたものですが、本人が見聞きしたというよりも、老人たちから聞き取りをして、史料を集めたり現地を歩いたりしながら編纂したものだと考えられています。
記録されている期間は、天文10年(1541)〜天正18年(1590)で、49年間の真田の歴史をまとめています。
上記リンクでは、51コマと52コマのあたりが「まつ」が行方不明になった話が出てきます。
信長が死んで、安土が大変なことになった後の部分です。
\\\\\\\\\\
「 ・・・安土へ遣わされける御娘子様の御行方(衛)無りければ、昌幸公御母公の御嘆き更に止時なかりければ御一門家老の人々(略)御落涙の外はなかりけり」
安土城へ人質になっていた松様の行方がわからないので、昌幸公や母君のお嘆きは止まることがなかった。一族や家中の人たちもただ、涙を流すだけだった。
\\\\\\\\\\
「 翌年の春、桑名の渡し守が許へ下郎等走り入りて休息しければ、二十斗(ばかり)の女房走り出で、(略)さめざめと泣いて信濃と聞くはなつかしや、自も信濃の者なるが子細有て此国に有つるが、本国なれば母を一人持侍る、在所は上田の城と御申し有けるが取直し上田の城町の喜兵衛と申す者の所へ御届候へとて紙包ひとつ渡されける」
翌年の春、桑名の渡し守の所で足軽たちが休息していると二十歳くらいの女性が走り出て、涙を流して「みなさんは信濃からですか。なつかしいことです。私も信濃の出ですが、いろいろあってこの土地におります。実家には母が一人いるはずです。出身は上田城なので、上田の城下にいる喜兵衛という人間にこれを届けてはくれませんか」と手紙をお預けになった。
\\\\\\\\\\
もう、これでこの女性の正体がわかりますね!行方不明になっていた「松」こと木村佳乃さんです!!
これで、この足軽は言われた通りに上田の城へ手紙を持ち帰り、報告するのでした。
しかし、喜兵衛とは言われたものの足軽大将は怪訝に思います。
「いや、喜兵衛とはその女が申したらしいが、城主昌幸さま以外に「喜兵衛」と名乗る者はいないはずだ。」
慌てて彼が紙包みを開けると、そこにはなんと姫君まつ様からの文が入っているではあーりませんか!!
☆なかなか読ませる場面ですが、真田昌幸は「武藤喜兵衛」の名で武田信玄に仕えていたのです。そのあたりを絡ませてくるところが、ちょっとにくいね。
\\\\\\\\\\
「・・・早々桑名へ御人を被遣、渡し守に御褒美被下、御迎取りあそばしける。渡し守安土の乱に奪捕ければ大切に存じ深く隠密したりけり、あさましき有様にて二とせのうきめのほど、思いやられて御いたわしく聞く人ことに哀は増すばかり。後に小山田殿の御内室に成り給ひけるとなり」
さっそく桑名へ人をやって、渡し守に褒美をつかわし、(姫を)お迎えになった。渡し守は安土の乱の時に(姫を)捕まえたのだけれども、大切に思って隠していたのである。ひどい状況で二年も大変な目に遭ったのだと、その話を聞いた人はみな哀れに思うばかりであった。彼女は後に、小山田さまの奥さんになったそうである。
・・・ん?
・・・んんん?
・・・んんんんん???
最後にさらっと恐ろしいことが書いてあるのに、みなさんは気づきましたか?(笑)
まつさま、まだこの時は小山田さまとは結ばれてないらしいです!!!(爆)
さすがは三谷さん。話がおもしろくなるように、書き換えてますねーーーー!!!
安土から逃げる際に、真田信繁のお姉ちゃんの「まつ」が湖に飛び込んで行方不明になる話
をやってました。
なんとまあ、お姉ちゃん「松」こと木村佳乃さんは、
記憶喪失
になっている場面も出てきて、かなりドラマチックだったのですが、どうも脚本だけじゃなくて本当に行方不明になっていた説があるようで。
村松殿は、 寛永7年(1630)6月20日に66才で亡くなって、松代の長国寺に葬られたらしいので、たしかにあのまま滋賀県琵琶湖に落ちて死んでいたら、話が合いません。
そのあたりの経緯を、「加沢記」から読んでみたいと思います。
近代デジタルライブラリー「加沢記」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020961
まず、加沢記について説明しておきましょう。
沼田真田藩に、加沢平左衛門という藩士がいて、江戸初期の人です。話の内容は戦国時代からの真田氏の動乱の歴史をまとめたものですが、本人が見聞きしたというよりも、老人たちから聞き取りをして、史料を集めたり現地を歩いたりしながら編纂したものだと考えられています。
記録されている期間は、天文10年(1541)〜天正18年(1590)で、49年間の真田の歴史をまとめています。
上記リンクでは、51コマと52コマのあたりが「まつ」が行方不明になった話が出てきます。
信長が死んで、安土が大変なことになった後の部分です。
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「 ・・・安土へ遣わされける御娘子様の御行方(衛)無りければ、昌幸公御母公の御嘆き更に止時なかりければ御一門家老の人々(略)御落涙の外はなかりけり」
安土城へ人質になっていた松様の行方がわからないので、昌幸公や母君のお嘆きは止まることがなかった。一族や家中の人たちもただ、涙を流すだけだった。
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「 翌年の春、桑名の渡し守が許へ下郎等走り入りて休息しければ、二十斗(ばかり)の女房走り出で、(略)さめざめと泣いて信濃と聞くはなつかしや、自も信濃の者なるが子細有て此国に有つるが、本国なれば母を一人持侍る、在所は上田の城と御申し有けるが取直し上田の城町の喜兵衛と申す者の所へ御届候へとて紙包ひとつ渡されける」
翌年の春、桑名の渡し守の所で足軽たちが休息していると二十歳くらいの女性が走り出て、涙を流して「みなさんは信濃からですか。なつかしいことです。私も信濃の出ですが、いろいろあってこの土地におります。実家には母が一人いるはずです。出身は上田城なので、上田の城下にいる喜兵衛という人間にこれを届けてはくれませんか」と手紙をお預けになった。
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もう、これでこの女性の正体がわかりますね!行方不明になっていた「松」こと木村佳乃さんです!!
これで、この足軽は言われた通りに上田の城へ手紙を持ち帰り、報告するのでした。
しかし、喜兵衛とは言われたものの足軽大将は怪訝に思います。
「いや、喜兵衛とはその女が申したらしいが、城主昌幸さま以外に「喜兵衛」と名乗る者はいないはずだ。」
慌てて彼が紙包みを開けると、そこにはなんと姫君まつ様からの文が入っているではあーりませんか!!
☆なかなか読ませる場面ですが、真田昌幸は「武藤喜兵衛」の名で武田信玄に仕えていたのです。そのあたりを絡ませてくるところが、ちょっとにくいね。
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「・・・早々桑名へ御人を被遣、渡し守に御褒美被下、御迎取りあそばしける。渡し守安土の乱に奪捕ければ大切に存じ深く隠密したりけり、あさましき有様にて二とせのうきめのほど、思いやられて御いたわしく聞く人ことに哀は増すばかり。後に小山田殿の御内室に成り給ひけるとなり」
さっそく桑名へ人をやって、渡し守に褒美をつかわし、(姫を)お迎えになった。渡し守は安土の乱の時に(姫を)捕まえたのだけれども、大切に思って隠していたのである。ひどい状況で二年も大変な目に遭ったのだと、その話を聞いた人はみな哀れに思うばかりであった。彼女は後に、小山田さまの奥さんになったそうである。
・・・ん?
・・・んんん?
・・・んんんんん???
最後にさらっと恐ろしいことが書いてあるのに、みなさんは気づきましたか?(笑)
まつさま、まだこの時は小山田さまとは結ばれてないらしいです!!!(爆)
さすがは三谷さん。話がおもしろくなるように、書き換えてますねーーーー!!!
2016年2月8日月曜日
日本で最初のゾンビ?!あるいは日本式フランケンシュタインの謎を追え! japanese zombie!
こんにちは。日本の歴史の変なところをツツいているeineです(^^
先日から、このブログの姉妹ブログの「名字まにあ」のほうで、佐藤さんの名字のルーツについて調べていたのですが、その中で、
かなーり気になる変てこな話
を見つけてしまったので、今日はそんな話を。
なんと!日本で最初のゾンビ・フランケンシュタインのお話です。
そのお話、もともとは佐藤さんのルーツを調べていたときに、ネタが上がってきました。
佐藤さんのルーツ
http://myoujimania.blogspot.jp/2016/01/blog-post_29.html
この中に、歴史上の有名人「西行法師」という人がいるのですが、この方にまつわるこんな話があるのです。
撰集抄「西行高野山において人形をつくる事」(第5)
” 西行が高野山の奥に住んでいたころのこと。
友人が遠くへ行ってしまってさみしくなったので、風流を理解してくれるトモダチがほしいなあ、と思って鬼が人骨を集めて人を作るように、トモダチを作ってみようと考えるようになった。
作り方の術は、人から聞いていたので、野原で骨を拾って並べて作ってみたが、人間の可たちのようで、やっぱりどこか違う。
声は楽器が鳴っているようだし、壊れた笛がひゅーひゅーなるだけのように声を出すだけだった。
ぶっちゃけうまくいかなかったので壊してしまおうとも思ったが、それも人殺しみたいだし、結局高野山の山奥へ連れて行ってほったらかしにしてしまった。
あとで、伏見中納言に、うまい人造人間の作り方を尋ねたら、私のやった方法をひとしきり聞いた後、
「だいたいOKだけど、香を焚いたら仏の功徳で魔物が逃げてしまうので、香をつかわず沈と乳を代わりに焚けばうまくいくよ」
と教えてくれた。
まじっすか。”
\\\\\\\\\\
訳は、eineさんの超訳です(^^;
西行法師は、本名を佐藤義清という武士で、平安末から鎌倉時代にかけて活躍しました。
藤原姓武士の総本家である、藤原秀郷の9世孫だそうなので、かなり本流の藤原氏ですね。
もとは鳥羽上皇の北面の武士でもありましたが、出家後は放浪の旅に出たそうで。
「撰集抄」は、西行作とされていますが、実際には作者不詳だそうです。
・・・とまあ、ここまでは歴史マニアとしては入門編ですね。
ここからはちょっとだけ背伸びして大学レベルのお話を添付しておきます。
岩手大学教育学部研究年報 より 中村一基さんの論文
「中世の人造人間説話の変容をめぐって」
http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/1769/4/erar-v61n1p98-106.pdf
こちらの論文では、西行の人造人間(ゾンビちゃん)の話にいくつかのポイントがあることを教えてくれます。
1)高野山に納骨する風習があり、それを西行が担当していたらしいこと。
2)反魂の術、というアンチ仏教的なワザ(おそらくは陰陽的な?)があったこと。
また、論文には、安倍晴明が死んで復活する話や、芥川龍之介の”羅生門”に出てくる老婆が髪を抜こうとした遺体の話まで、死者と人造人間についてのいろんな考察が出てきます。
ちょっとおもしろい(^^
ちなみに、どうしてもゾンビを作りたい方は、
早稲田大学さんのページ
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he12/he12_01708/index.html
がよみやすいほうだと思われます。うふふ。
先日から、このブログの姉妹ブログの「名字まにあ」のほうで、佐藤さんの名字のルーツについて調べていたのですが、その中で、
かなーり気になる変てこな話
を見つけてしまったので、今日はそんな話を。
なんと!日本で最初のゾンビ・フランケンシュタインのお話です。
そのお話、もともとは佐藤さんのルーツを調べていたときに、ネタが上がってきました。
佐藤さんのルーツ
http://myoujimania.blogspot.jp/2016/01/blog-post_29.html
この中に、歴史上の有名人「西行法師」という人がいるのですが、この方にまつわるこんな話があるのです。
撰集抄「西行高野山において人形をつくる事」(第5)
” 西行が高野山の奥に住んでいたころのこと。
友人が遠くへ行ってしまってさみしくなったので、風流を理解してくれるトモダチがほしいなあ、と思って鬼が人骨を集めて人を作るように、トモダチを作ってみようと考えるようになった。
作り方の術は、人から聞いていたので、野原で骨を拾って並べて作ってみたが、人間の可たちのようで、やっぱりどこか違う。
声は楽器が鳴っているようだし、壊れた笛がひゅーひゅーなるだけのように声を出すだけだった。
ぶっちゃけうまくいかなかったので壊してしまおうとも思ったが、それも人殺しみたいだし、結局高野山の山奥へ連れて行ってほったらかしにしてしまった。
あとで、伏見中納言に、うまい人造人間の作り方を尋ねたら、私のやった方法をひとしきり聞いた後、
「だいたいOKだけど、香を焚いたら仏の功徳で魔物が逃げてしまうので、香をつかわず沈と乳を代わりに焚けばうまくいくよ」
と教えてくれた。
まじっすか。”
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訳は、eineさんの超訳です(^^;
西行法師は、本名を佐藤義清という武士で、平安末から鎌倉時代にかけて活躍しました。
藤原姓武士の総本家である、藤原秀郷の9世孫だそうなので、かなり本流の藤原氏ですね。
もとは鳥羽上皇の北面の武士でもありましたが、出家後は放浪の旅に出たそうで。
「撰集抄」は、西行作とされていますが、実際には作者不詳だそうです。
・・・とまあ、ここまでは歴史マニアとしては入門編ですね。
ここからはちょっとだけ背伸びして大学レベルのお話を添付しておきます。
岩手大学教育学部研究年報 より 中村一基さんの論文
「中世の人造人間説話の変容をめぐって」
http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/1769/4/erar-v61n1p98-106.pdf
こちらの論文では、西行の人造人間(ゾンビちゃん)の話にいくつかのポイントがあることを教えてくれます。
1)高野山に納骨する風習があり、それを西行が担当していたらしいこと。
2)反魂の術、というアンチ仏教的なワザ(おそらくは陰陽的な?)があったこと。
また、論文には、安倍晴明が死んで復活する話や、芥川龍之介の”羅生門”に出てくる老婆が髪を抜こうとした遺体の話まで、死者と人造人間についてのいろんな考察が出てきます。
ちょっとおもしろい(^^
ちなみに、どうしてもゾンビを作りたい方は、
早稲田大学さんのページ
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he12/he12_01708/index.html
がよみやすいほうだと思われます。うふふ。
2016年2月4日木曜日
【名所】 武家屋敷にハマっています 〜三草藩旧尾崎邸へ行ってきました〜
こんにちは
うちの家は、平成になってから建てられた建物なのですが、おもしろいことに「書院造り」になっていて、付け書院が窓側に作られているんです。
そんなことから、昔の建物とか、武家屋敷の造りとかに興味があるのですが、今回は、兵庫県加東市の
三草藩武家屋敷(旧尾崎邸)
へ遊びに行ってきました。
武家屋敷というのは、本当は格式の高い武士のお屋敷で、中級以下の藩士の屋敷は「侍屋敷」というそうですが、今となってはほんまものの武家屋敷がほとんど残っていないので、侍屋敷のほうが一般的になっているそうです。
三草藩(兵庫県加東市)は小さな藩なので、武家屋敷といってもこじんまりとしていますが、それでも玄関には式台がついていてそれなりの格式を備えています。
上の写真で、玄関のような入り口が右と左と並んでいるのがわかりますか?
左が客人を招くときの式台、右が通常の出入り口になっていて、かまどのある台所へ直結しています。
全体的には、平屋でコンパクトな感じ。
でも、
けっこう広い中庭があって、井戸や、写っていませんが納屋(蔵)のようなものが付随しています。
詳しい住所などのデータはこちらに。↓
じゃらんnet 三草藩武家屋敷
古い武家屋敷などを見ていると、日本のおうちの基本的な造りがとても共通していることがよくわかりますね。
だいたい、入って右側に台所や風呂があって、左側に2×2を基本にして畳の間が4つ並んでいる、という感じ。
今度は別の武家屋敷におじゃまして比較してみますね。
うちの家は、平成になってから建てられた建物なのですが、おもしろいことに「書院造り」になっていて、付け書院が窓側に作られているんです。
そんなことから、昔の建物とか、武家屋敷の造りとかに興味があるのですが、今回は、兵庫県加東市の
三草藩武家屋敷(旧尾崎邸)
へ遊びに行ってきました。
武家屋敷というのは、本当は格式の高い武士のお屋敷で、中級以下の藩士の屋敷は「侍屋敷」というそうですが、今となってはほんまものの武家屋敷がほとんど残っていないので、侍屋敷のほうが一般的になっているそうです。
三草藩(兵庫県加東市)は小さな藩なので、武家屋敷といってもこじんまりとしていますが、それでも玄関には式台がついていてそれなりの格式を備えています。
上の写真で、玄関のような入り口が右と左と並んでいるのがわかりますか?
左が客人を招くときの式台、右が通常の出入り口になっていて、かまどのある台所へ直結しています。
全体的には、平屋でコンパクトな感じ。
でも、
けっこう広い中庭があって、井戸や、写っていませんが納屋(蔵)のようなものが付随しています。
詳しい住所などのデータはこちらに。↓
じゃらんnet 三草藩武家屋敷
古い武家屋敷などを見ていると、日本のおうちの基本的な造りがとても共通していることがよくわかりますね。
だいたい、入って右側に台所や風呂があって、左側に2×2を基本にして畳の間が4つ並んでいる、という感じ。
今度は別の武家屋敷におじゃまして比較してみますね。
2016年2月2日火曜日
もうすぐ節分!豆まきの発祥ってどこか知ってますか? 〜豆まきが誕生した場所で、はじめての節分祭開催だそうです〜
こんにちは。
京都新聞さんに、おもしろい記事が載っていたので、思わずメモめも。
発祥伝承地で豆まき復活 京都・深泥池貴舩神社
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20160202000080
ん?発祥伝承地ってどゆこと?と思ってよく読んでみると、まず、豆撒きというのは、私たちのあんまり知らない、
京都、上賀茂の奥のほうにある ”深泥池貴船神社”
というところが発祥なんだそうです。
ちなみに、「貴船」という名前でピンとくる方もたくさんおられると思いますが、この神社は、京都の鞍馬にある「貴船神社」の分社なのだとか。でも、ちょっとややこしいのですが、深泥池の貴船神社は、江戸時代になって分社されているので、豆撒きが江戸時代に始まったというには遅すぎですよね。
豆撒きそのものは、平安時代からある風習なので、話が合いません。
\\\\\\\\\
というわけで、ちょびっと解説を。
まず、豆撒きそのものは、やっぱり鞍馬の本家「貴船神社」に関係があります。
その貴船地域から、今回話に登場する「深泥池」まで何か抜け穴というか、不思議な地下通路がつながっている、という伝説がまず存在するところがポイントです。
深泥池に、のちに貴船神社の分家さんができるのは、そういう元ネタがあるからなのです(^^
さて、 その抜け穴を通って、貴船地区から深泥池まで鬼がやってきて、鬼が穴から出てくるので、その穴に向かって豆を投げてふさいでしまおう、というのが本来の豆撒きなのだそうです。
あるいは中世の御伽草子「貴船の本地」では、
(京都大学図書館蔵 きふねの本地)
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/otogi/html/c26.html
”節分の日に現れた鬼を、煎り豆で目を狙って打って退散させる”
という話が出てくるので、これも豆撒きの発祥とされています。
しかし、どちらも”鬼は鞍馬と関係ある”ことになっているので、このあたりは気になりますね。
のちに天狗も鞍馬にいることになってますので、鞍馬という山は異境だったのでしょうか。
京都の奥といえば、丹後方面の”大江山の鬼”や酒呑童子の話も有名ですが、やっぱり昔の人にとって山奥は恐ろしいところだったのかもしれません。
2016年2月1日月曜日
NHK大河ドラマ真田丸の真実。 真田兄弟は入れ替わってた? 〜大泉洋が弟で、実は堺雅人がお兄ちゃん?〜
こんにちは
歴史好きにとっては、毎週見逃せない大河ドラマ「真田丸」ですが、ドラマにちなんで、
「真田家の子孫と、徳川家の子孫が対談する」
というビッグな企画があったそうです(^^
歴史好きにとっては、毎週見逃せない大河ドラマ「真田丸」ですが、ドラマにちなんで、
「真田家の子孫と、徳川家の子孫が対談する」
というビッグな企画があったそうです(^^
(画像はNHKさんが出典です)
真田・徳川家の子孫が明かす「謎と真実」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/47582
現代ビジネスさんというサイトに その対談が載っているのですが、なんと!
お兄ちゃんの真田信幸が実は弟で、弟だと思われている信繁が本当は兄だった説
があるというのです。
わかりやすくビジュアルで説明すると、「大泉洋が実は弟、堺雅人が実はお兄ちゃん」ということですね!(^^;
ちなみに、堺雅人さんは1973年10月生まれで、 大泉洋さんは1973年4月生まれですから、
ほとんどかわんない!
のですが(笑)真田信幸と信繁も、1歳しか年が違わなかったそうですからこの配役はアリということで(^^
…それにしても、大泉さん落ち着いてますが、堺さん落ち着きないです。演技的には。
(しかし、落ち着き払っている堺さんも、何か変ですね。逆に落ち着かないwww)
話がとびました。兄、弟入れ替わり説の典拠は
「兄が源三郎で弟が源次郎」
ということもあるようです。それに、信繁の方が格上の奥さんを貰っているとか、気になる点がいくつかあるようで。
うーん、真実はどうだったのか。気になります。
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