2016年9月7日水曜日

【 原作で読もう!真田丸 】 ショック!!!「犬伏の別れ」は無かったの? 信幸兄の名演技を返して〜。

 前回のNHK大河ドラマ真田丸「犬伏の別れ」の回は、大泉さん演じる真田信幸兄の「見せ場」となったすばらしい回でした。


 いつも振り回されっぱなしのお兄ちゃんが、


 「わたしは決めました!」



 と、一世一代の啖呵を切りながら、それが引いては真田家の長男らしく、



「真田一族の命運を握る決断」



になっているところが、とても格好良かったです。






\\\\\\\\



 でも。でもでも。



 ショックです!!!




 あんなにすばらしかった「犬伏の別れ」がどうやら後世の創作のようで、



史実じゃない?!



かもしれないなんて!!




 というわけで、今回の「原作で読もう真田丸」のコーナーは、同時代資料はないので、なるべく古そうな記述から見る真田親子の別れについて調べてみました!







■上田軍記 (「蕗原拾葉」2輯)

 蕗原拾葉は、江戸時代後期に中村元恒という人が信濃に伝わる古い資料を集めたもので、150巻に及ぶ古文書の収集資料です。

 その中から、上田合戦に関わる部分をチョイスしました。

国立国会図書館デジタルコレクション版は
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1116474にあります。17コマ



 ”後之上田陣起之事”
 と題して物語はスタートします。


 慶長5年に、上杉が会津から上洛してこないので、反逆があるのではないかと家康が上杉征伐に向かい始めた所まではドラマとおんなじ(^^


ただし

”昌幸父子三人も此時家康公の供奉として関東へ下向ありしところに”

三成が兵を起こしたことが書状が届いて知ることになります。



そして、三成からの手紙の引用があって 、つぎに三成方の将兵リストがあって、真田親子がどうしたかが書かれています。




☆ まず、治部さまからの手紙がちょっとキュンキュンします。


 宛名欄の最後、追伸欄に

”八月五日


 真田房州

 同 豆州

 同 左衛門介殿

   人々御中
  
 夜中に相調候間落字如何無心元候以上”


って三成さまが書いているのですが、


「夜中に急いで書いたので、誤字など間違いがあるかもだが、許してくれ」


っていう言い訳が、緊急な様子と治部さまらしい人間味が出てて涙でます!!!



 

☆ついでに犬伏の別れと関係ないけど、武将リストがときめくので引用しますね。

 (詳細は、配置人数も載っています)


”  三口への(中略)人数備えの覚


伊勢口

  安芸中納言殿

   秀家

  筑前中納言

  土佐侍従

  大津宰相

  立花左近

  久留米侍従

  筑紫主水

  龍造寺

  脇坂中書

  堀内安房守

  羽柴下総守

 城加番

  山崎右京

  蒔田権之助

  中居式部少輔

  長束大蔵太輔

美野口

  某石田治部

  岐阜中納言一手

  羽柴右京・稲葉彦六

  羽柴兵庫頭

  小西摂津守

  同 与力衆四人

  稲葉摂津守

北国口

  大谷刑部少輔

  若狭少将 同宮内少将

  丹後七頭衆

  但馬二頭衆

  木下山城守

  播磨姫路衆

  越前東江衆

  戸田武蔵守

  福原右馬允

  溝口彦三郎

  上田主水正

  寺西下野守

  奥山雅楽頭

  ・・・・・・” 以下略します。長いから。



 秀家(呼び捨て的な)とか 某石田治部 とか、萌えますね〜。



 ちなみに、戦国時代には、官位もつけず名前呼び捨てが「一番敬意のこもった表現」なんだそうで。


 宇喜多さまがNO.1ってことですね。関ヶ原では、安芸中納言(毛利輝元)をかつぐ形で総大将にするので、本当の意味での主力メンバーが



 ”呼び捨て”秀家と某(笑)石田治部


ってところがやたらリアルです。


 毛利輝元にだけ”殿”がついているのも、心をくすぐりますwww





\\\\\\\\\\



 話がとってもずれました。


 肝心な真田親子の別れの部分です。では読んでみましょう。




如是に石田三成が方より謀書を送りければ、昌幸深く思慮を廻し父子の間を引分れて信州上田の城へ引返して籠城ありけり。”




・・・え?



・・・それだけ?



・・・犬伏の別れは?!



・・・おまけに、信幸おにいちゃんの覚悟は?!



 ・・・あっさりすぎるやんけーーーー!!!




 というわけで、たぶんパパは相変わらず計略を巡らし、おにいちゃんは嫁とか舅のこととかいろいろで、離脱したのだと・・・。


 てへぺろ。


  








2016年8月8日月曜日

【 原作で読もう!真田丸 】 出浦昌相はまだ死んでない!復活を希望します〜!の巻。



 日曜日のNHK大河ドラマ「真田丸」は



 秀吉が死んじゃった!


はともかく



 出浦様まで死んじゃった!!!



という大変な展開になってしまいました(><;)



 物語は、真田パパと密談して家康を暗殺しようとした出浦さまが、忍者の本領発揮で家康のところに忍び込んだまではいいんだけれど、



 なんと!真田信幸(洋ちゃん)のせいで見つかる!



というものすごい流れで、結果・・・・




 火遁の術で爆死!!!!



ということになってしまったというお話。





 ・・・ああ、物語前半から真田家の名実共に支えであった出浦さまが死んじゃったので、出浦ロスが激しくなりそうです。



 でも、ちょっとまてよ?!



 史実では、こんな変な所では死なず、信幸あらため真田信之の松代藩までついてゆくはずの出浦さま。


 もしかすると、実は死んでいないのかもしれない!と思い直しました。



\\\\\\\\\\



 というわけで、出浦さまの周辺を洗ってみると、なななんと、


「出浦昌相、まだまだ死んでない説」


が出てきたので紹介しておきたいと思います(^^




 そのネタ元は、なんとNHK公式サイトに隠れています。

 

 真田丸サイト インタビュー
 http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/special/interview/interview40.html



 記事は、先日公開されたばかりの「寺島進 独占インタビュー」ですが、ここに面白いリークが載ってました!


 寺島さんいわく(引用です)


”第31回では・・・死ぬような目にあってしまいましたからね。”


”史実では、今後出浦が信幸に仕えるというようなこともあるようですが・・・”


”三谷さんにお伝えしたら『ちょっと考えます』とお返事”



だそうです。





 ということは、ということですよ!!!!




 三谷さん、何か考えているはず!!!



 そして、史実にもある程度沿う形で、出浦さま復活もありえる予感です!!!




 \\\\\\\\\\


 うーん、終盤までたぶん引っ張りそうですが、あっと驚く再登場に期待できそうです(^^



 というわけで、今回の原作で読む真田丸のコーナーは、


 真田信幸が上田から松代に転封になったときに、信幸(このときは信之)が出浦さまに書いたというお手紙を読んじゃいましょう!



 おぎはら植物園さんのサイトより

 http://www.ogis.co.jp/sanada.html


上田市 デジタルアーカイブさんのサイトにもあります。

 http://museum.umic.ueda.nagano.jp/sanada/siryo/sandai/130001.html




「元和8年10月13日 出浦対馬守宛 真田信之書状」



尚々、我等事もはや老後に及び、万事入らざる儀と分別せしめ候へども、上意と申し、子孫の為に候条、御諚に任せ松城へ相移る事に候 様子に於ては御心易かるべく候 以上




去る十一日の書状鴻巣に参着、披見候

仍って今度召しに付いて、不図参府仕る処に、河中嶋に於て過分の御知行拝領せしめ候

殊に松城の儀は名城と申し、北国かな目の容害に候間、我等に罷り越し御仕置き申し付くべきの由、仰せ出だされ候

彼の表の儀は拙者に任せ置かるるの旨、御直に条々、御諚候


誠に家の面目外実共に残る所なき仕合せにて、今十三日鴻巣に至って帰路せしめ候 先づ上田まで罷り越すべく候間、其の節申すべき事これ在る儀、一角所迄遣わされ候 祝着に候 猶、後喜を期す 謹言



十月十三日 伊豆守 信之(花押)


出浦対馬守殿 ”





\\\\\\\\\


 今回の真田丸にも出てきましたが、この時代の文書は「追伸」やらなんやらがあるので、最初のところはむしろ「追伸」で、これ以上追加がないので「以上」と書いてあるらしいっぽいです。



 ということは読み方はこんな感じに。


”11日に鴻巣に書状が着きましたので読みましたよ。

 今回呼び出されたのは、川中島で過分の知行地をいただけるという話でした。

 松代は名城と聞いていますし、北国の要の要害ですから、将軍様直々に私にお任せくださるとのことで、真田家の面目もたいへんに幸せだと思います。

 13日に鴻巣に来たところなのでこれから帰りますが、 上田に着くまでの間に、この件について段取りをまとめておいてください。まずはめでたいということで。


追伸:私たちももう年寄りになってしまったし、すべてが受け入れられる話ではないけれど、お上の意向でもあるし、子孫のことも考えて松代に移る決心をしました。そういうことで、よろしく 以上


信之より、出浦どのへ”




 追伸のところが重要で、「ああ、松代へ行きたくなかったんだな!」ということがわかります。


 本音が覗いてる。同時に、出浦さまは信幸の信頼が厚かった様子も伝わってきますね!



 ちなみに、鴻巣には小松姫のお墓がある、真田ゆかりの土地です。





2016年7月24日日曜日

ポケモンGOを攻略! ~ポケモンGOに有利な地域・エリアはここ!判明したよ。

 こんにちは。


 さっそくですがハマってます!ポケモンGO!

 

 まだリリースされて数日なんですが、eineさんは、もともと「ポケモン緑」「ポケモン赤」をゲームボーイで遊んでいた世代(ああ、歳がばれちゃう!)ので、



 早くも、はまりました(笑) 



 ところが、eineさんの住んでいる住宅地には、そんなにポケモンが出なかったので、今日は車でいろいろ回ってみたのですが、



 なんと!ポケモンGOに有利な地域と、不利な地域がある!



ということに気づいてしまったのです!


 その理由は簡単。


 ポケモンGOではなんと言っても、まずは



 ポケスポット

(この青い四角いのがボールをゲットできるポケスポット)



に行って、モンスターボールやアイテムを貰わないことには始まらないのですが、このポケスポットの設定箇所に


 ものすごいばらつき


があるのです。



 任天堂の公式サイトでは、このポケスポットの設定場所は「名所旧跡や有名なモニュメントなど」と書かれていますが、今日、eineさんがいろいろ見て回った結果では


■ 駅

■ お寺

■ 神社

■ 公園

■ 市役所・郵便局などの公的機関

■ 史跡・旧跡

■ 石像や石碑

■ 道路から見えるモニュメントや橋の欄干など

■ 銅像など


が、多くの場合ポケスポットに設定してありました。



 で、実際にeineさんが今日ぐるぐる回ったのは


「田舎」

「ちょっと都市部」

「城下町」

などだったのですが、



 なんせやたらポケスポットが散らばっているのはなんと!


「城下町」


だったのです!!!!


 どういうことか説明しますね?



 お城、その中にある神社、武家屋敷、江戸時代の石碑、近くの公園、歴史的モニュメント、公開されている古民家など


 ↑こういうのが軒並み「ポケスポット」になっているので、周囲をぐるぐる歩いているだけで、


 なんと半永久的にモンスターボールを集められるというしくみ。


 回っている間に最初のほうのスポットは回復しますので、また集められるのです!!




 たぶん、任天堂さんは「公の場所をある程度自動でポケスポット化するようにプログラム」しているのだと思うのですが、 今のところは



 人口比とか関係なく、とにかく名所旧跡の集まる城下町や歴史のある街・エリア


が、ポケモンGOにはめちゃくちゃ有利!


だということは間違いないと思います。


 さあ、ボールを集めに行ってくるぞー。



2016年7月16日土曜日

【 原作で読もう!真田丸 】 切腹直前?! 豊臣秀次さまの死の真相はどうなるの?! 原作ではどうなってる?

 こんにちは


 いよいよ、ちょっとにやけなお兄ちゃん。豊臣秀次関白が、大変なことになる回が近づいてきました。


 ああ!放送前に書いているので、三谷さんの脚本ではどうなっているのかわかりませんが、関白殿下が出奔して前回は終わったので、たぶん。



 7月17日の回で、死んじゃうんだろうな!!!


と思ってドキドキです。





 そんなこんなで、関白秀次さまの死の真相を解き明かさないと「きりちゃん」も浮かばれないので、調べてみました。



\\\\\\\\\\




 一般的には、実子「拾ひろい」が生まれてから、甥っ子の秀次は疎んじられて切腹させられたということになっている秀吉と秀次の関係ですが、



 NHK大河真田丸では、二人のボタンの掛け違いや思い違いがどんどんひどくなってゆく



様子で描かれていました。



 なので、先週の放送でも、



「全面的に秀吉がひどかったり悪いわけでもなく、あるいは秀次も良かれと思っていろいろ頑張るんだけれど、結果としてすれ違う」


感じでドラマが進んでゆきましたね。





 ところが、近年の研究では、今回のドラマでもそれっぽく描かれていますが、


「秀次、早まって自ら切腹したのでは説」


というのがあるそうです。


 ☆国学院大学の 矢部せんせいの説。
 http://www.sankei.com/west/news/131117/wst1311170012-n1.html





 その記事でも出てくる「御湯殿上日記」をさっそく原作で読んでみましょう!



  文禄4年7月16日の項は


続群書類従 補遺 第三の第八 にあります。



『 十六日 はるヽ。御とうろうの返しあり。めでたしめでたし。しゆこうより御としちかへのかちん。 御まな。御たるまいり候て御さか月まいる。しゆこう。女御。女中。御はんしゆみなみな。御いわゐあり。めでたしめでたし。

 くわんはくとのきのふ十五日のよつ時に御はらきらせられ候よし申。むしちゆへかくの事候のよし申なり。





  前半部分は、なんかお祝いごとがあったらしくめでたしめでたしです(笑)



 ところが、関白殿、昨日十五日の四つ時に



御腹きらせられ候


とあります。


むしち


 は 、横に漢字がふってあって漢字で書くと「無実」なんだって!!!



無実なのに、御腹をお切りになられた



というのが通常の古文の訳ですから、この日記を書いた宮中の女官たちの間では、




「まあ、 関白殿きのう、お腹をお切りになられたらしいわよ!」


「無実だからこそ、そんなことしたんだって。かわいそう・・・。」



という会話があったということなのですね!!!!!





 この説では、むしろ「秀次が勝手なことをしたので、秀吉がそのことに対して激怒して、皆殺しした」という感じになっているので、




 もしかすると明日の真田丸でも、そんなイメージでお話が進行するのかもしれません。




  源次郎や、きりちゃんの心の痛みようが、じりじり伝わってきそうな、明日が待ち遠ししです!!!





2016年7月8日金曜日

NHK大河ドラマ 「真田丸」を原作で読もう! 真田丸ファンのための”原作”軍記物一覧

 こんにちは


 毎週欠かさずに見ているNHK大河ドラマ「真田丸」ですが、ハマってしまって大変です
(><;


 歴代こんなにおもしろい(あるいは、おもしろおかしい)大河ドラマはなかったように思います。


 さすがは脚本を書いておられる三谷さんの腕前なのかな〜、と思って、そういえば原作ってどうなってるんだろう?の謎が深まり・・・。




 というわけで、今回は「真田丸」の原作、出典に当たるだろうと思われる軍記物をリストにしてお届けします。


 数々の名場面がどうなっているのか、ぜひ原典を読んでみてくださいな。





\\\\\\\\




<前半部分・真田家周辺>

 
 『加沢記』・・・沼田藩右筆の加沢平次左衛門による真田三大記 北条征伐まで

  国立国会図書館デジタルコレクション 加沢記 附羽尾記
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020961?tocOpened=1





 <徳川家からの視点>


 『三河物語』・・・大久保忠教著 戦国時代から江戸初期までの徳川家伝記

  国立国会図書館デジタルコレクション 三河物語1
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773094

 2
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773095


 3
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773096





<北条氏>


 『北条五代記』・・・三浦茂正著 後北条氏逸話集

 国立国会図書館デジタルコレクション 史籍集覧 第5冊
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3431172




 <後半 秀吉中心になってから>




 『川角太閤記』・・・川角三郎衛門著 秀吉逸話集

 国立国会図書館デジタルコレクション 川角太閤記 上
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/899814


  下
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/899815
 


 『太閤記』

 国立国会図書館デジタルコレクション 改訂史籍集覧 第6冊
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3431173

 


__________


 こうした古典資料に加えて「真田丸」の考証については


 丸島和洋さんのツイッター
 https://twitter.com/kazumaru_cf


で、裏話がたくさん流れてくるので参考になります!






 また、新しい資料をみつけたら追加しますね!



2016年6月27日月曜日

真田丸で読む「世界の政治経済」 ~英国のEU離脱は、まるで真田丸の世界~

 イギリスが、EUから離脱することを決めた、と大騒ぎになっていますが、eineはそれほど世界史が得意ではないので、「世界の重大事件」なのに、意外とポカンと口をあけてTVのニュースを見ています。


 とりあえず、「EUからイギリスが抜けたいらしい」はわかりますが、でも「スコットランドは離脱に反対」だというので、まるで


 賛成の反対なのだ~。バカボンパパ。


みたいになってます(^^;




 あ、そういえば世界史で、イギリスという国は実は無くて、なんか3つか4つくらいの国が合体している「連合王国」だって聞いたな、と思い出したのですが、そういうことを思い出して見ると、




 こ、これって真田丸じゃん(はあと)



ということがわかりました(笑)





 というわけで、「歴史まにあ」ブログとしては、英国のEU離脱を「真田丸」で読み解いてみたいと思います。






【1】 グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国は、つまり信濃小県地方。


 イギリス、といえばひとつの国のようですが、実は4つの国から出来ていて、「イングランド」「ウェールズ」「スコットランド」「北アイルランド」のそれぞれの旧領主が合体して国を作っているそうです。


 真田丸前半では、草刈パパはまだ「信濃小県地方の小領主の一人」でした。



 なので、真田パパ・ 出浦さま、室賀さまなど、豪族が何人かいたわけです。

 厳密には、矢沢のおじさんとか、きりちゃんのお父さんの高梨さんとかも、小領主です。



 それらが、最終的に「真田氏」を中心にまとまっていったのが真田丸の世界。

 一方、「エリザベス女王」を中心にまとまっていったのがイギリス、とすればわかりやすいですね!





 【2】 EUは、「秀吉に恭順して」統一された天下のこと。


  真田パパもずーっと渋っていた「信長や秀吉に従う」こと。でも、「戦無き世」を求めて、また大きな力に引きずられる形で、最終的には上洛して秀吉に従います。


 「滅ぼされない」ということはつまり、「メリットがあるから秀吉に従った」わけで、EUのみなさんも経済的なメリットを信じて合体したということですね。


 でも!


 その分、「本来の領主としては主権を発揮できない(秀吉の言うことを聞かなくてはならない)」わけで、これはEU諸国も、大名たちもおんなじです。


 だとすれば、北条氏のように


 「やっぱり自分たちは独立して物事を決めたい!」


と思う一団が現れても、おかしくはありません。それは経済的なメリットとは別の問題なのです。


(北条氏も、秀吉が優勢なのにあえて逆らっちゃいましたので。感情的な部分だったのか、それとも目算があったのかはわかりませんが)





  【3】 現代は移民問題。戦国~江戸時代は「転封」問題があった。


 現代のEUの問題は、人の移動の垣根がなくなって、豊かな地方に貧しい地方の人たちが移動することでちょっとややこしいことになっています。


 戦国時代の大名たちは、それとはちょっと違いますが「転封」があり、天下統一のせいで転勤させられることがありました。


 たとえば家康。真田丸ではさっそく「静岡」地方から「東京」へ移動させられています。一昨年の軍師官兵衛では、黒田家は姫路から九州へと移動させられました。


 現代のEUの人々は、「それぞれの領土にそれぞれの人がいてくれたら、自分たちに損益がかぶってくることはないのに」と思っています。

 戦国時代の大名は「それぞれの自分たちの領地を安堵してほしい!」と思っています。


 話は違うようで、実は関係あるんですね。






 さて、EU離脱を選んだ英国の人たちは、これからしばらく「篭城戦」ということになるのでしょうか?!


 真田丸では、せっかく統一された天下が、再び乱世へと逆戻りします。


 ヨーロッパも、そうなるのか?!!!


2016年6月6日月曜日

真田丸に「風魔小太郎」が出ないかな〜と期待します。(出ないだろうね) 真田丸と忍者のお話。

 日本全国1億人の「真田丸」ファンのみなさまこんにちは。

 回を追うごとに!と言った方がよいと思いますが、ネット界隈でも大人気のNHK大河ドラマ、真田丸。


 放送日には、BS版6時からと地上波8時からツイッターも関連ツイートで溢れかえるという楽しい日曜日が恒例となってます(^^



 ああ、このままでは真田丸が終わっちゃったら、「真田ロス」になりそうなことったらありゃしませんが、 もうそんな心配をしないといけないほど・・・・。





 ところで、史実とは違いますが、「真田幸村と言えば、真田十勇士」というこれまでのイメージを大事にして、NHK大河真田丸にも、


 いかにも忍者っぽい、佐助


という人物が登場しています。これはもちろん、十勇士の中の「猿飛佐助」をモチーフにしているのですが、甲賀流忍者の猿飛佐助だけでなく、十勇士には伊賀忍者の霧隠才蔵なども登場しますので、忍者感満載ですね!




 一方大河ドラマでは、われらが出浦さまも、忍者っぽく描かれています。手裏剣を投げるシーンなんかも登場しました。




 出浦昌相こと出浦盛清は、清和源氏村上氏の出で、村上義清から武田氏に仕え、のちに真田氏の家臣になります。


 松代藩の家老である河原綱徳が記した『本藩名士小伝』には、出浦さんは「甲州透破」の棟梁であると書かれているらしいので、やっぱり忍者だったのでしょうか?!




 「甲州透破(こうしゅうすっぱ)」
 


 とは、武田氏が用いた忍者集団です。武田氏はこの忍者たちを使って敵方を撹乱したのだとか?!






 ところで、伊賀忍者VS甲賀忍者のように、甲州透破にもライバルがいます。



 それが



  相州乱破(そうしゅうらっぱ)



と呼ばれた、 風魔小太郎率いる忍者たちです。




 風魔小太郎たち「風魔一族」こそ、真田十勇士のようなフィクションの存在ではなく、風魔一党は



実在の人物



(とされている?)なので、ぜひぜひ!真田丸に登場してほしいですね。



 風魔一党は、もともとは「風間」と言いましたが、いつしか風魔と呼ばれたというところもミステリアス!


  北条氏に100年もの間仕えていたというので、絶対北条氏政の近くにも控えているはず!


 
  その風魔一族も、北条氏滅亡によって、盗賊となり、1603年に徳川家に捕らえられて滅ぼされたという話もあるそうです。


 

 
\\\\\\\



 そういえば、NHK大河真田丸にはもう一人重要な忍者が出てましたね!


 伊賀越えのあたりで役に立ったんだか立たないんだかよくわからないキャラだった


 服部半蔵



さまです。もう誰がやってたか忘れた人は、リンクをちぇーっく。


http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/cast/hattori_hanzo.html 


↑あー、いたいた。思い出した!


 
 実はこの服部半蔵家が一番長く続いて、明治になるころには桑名藩の家老だったそうです。


 ぜひ、服部半蔵さんも、再び登場を願ってます!

2016年5月31日火曜日

”真田丸×リーガルハイ!”になりそうな、沼田城をめぐる裁判シーンはどうなるの?

 先日の日曜日のNHK大河ドラマ真田丸、第21回放送は


「戦端」


ということで、沼田城の領有権を巡って、北条氏と真田氏が争う・・・しかし、それは秀吉の前で裁判をして!


という展開でした(^^



 沼田城が誰の正当な持ち物か、という点はたしかにややこしくて、ある時期まではたしかに北条氏が制圧していましたが、真田パパは「北条氏に従います〜」というフリをしている間に沼田を手にいれて、その後、



そのまま上杉へついてしまう!




という無茶をやったので、揉めたのです。ああ、やっぱり草刈パパが悪いのね!(笑)




 それはともかく、領有権が揉めてしまった以上は、秀吉が仲裁して・・・という流れになっているわけですが、いよいよ次回は、




戦国版リーガルハイ!



が開催される模様!




  
 ・・・このお話。結論から言うと、さらに揉めます(苦笑)



 秀吉の裁定は、沼田は北条方のものとして、沼田城代に 猪俣邦憲を入れるのですが、ところが、この猪俣氏、勢い余って沼田の支城だった


名胡桃城



まで攻めてしまったので、この城は真田のもんじゃい!と話がややこしくなります。




 なんと、これが引き金になって、かの有名な「小田原征伐」がはじまってしまい!さらには



のぼうの城



で、野村萬斎が踊りだすハメになるとは、誰も想像がつきません(^^;


(忍城は小田原の支城でしたので)








 さて、というわけで。

 この場面、「加沢記」ではどうなってるかを見てみます。


テキスト打ち直すのめんどくさいので、近代デジタルライブラリーより該当画面をパチッとな。


出典 近代デジタルライブラリー「加沢記」
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020961


 コマ68

「秀吉公御扱を以って、北条殿と昌幸公和談 付所々城代の事」




eine的に要約しまーす。


「北条殿が上洛しないので秀吉は、不審に思って、『いてもうたろうか、われ』と思っていたのだが、家康がいろいろと根回ししたので、北条氏照が上洛した。

でも、細かい領地の境目とかそんな話があるので、北条の老家臣である(板部岡)江雪斎が上洛して、 いろいろごにゃごにゃ言った。」


「そこで、秀吉は実況検分役を使わしたところ、大泉源三郎信幸とか、矢沢のおっちゃん(”沼田は渡さん”とずっと言ってるおじさん)とか 、出浦☆進とか(かっこいい!)が飲み食いさせて、領地をどこそこで区切ることがまあ、決まった」


「ようするに、名胡桃城から3分の1は、真田領、それ以外の3分の2は北条領、ということで両者は和睦したので、秀吉の使いは帰った」


「それから、誰をどこに配置するか、いろいろ采配したよ」



というお話。




 あれ?!



 源次郎のリーガルハイは!!!!



 えーっと、三谷さんの脚本が、日曜日にどうなるかはさておき、加沢記的には、




 頑張ったのは、大泉お兄ちゃんと、矢沢のおっちゃんと、出浦さん



みたいです。 あれれ?!

 

 

2016年5月6日金曜日

【名所】 明石城へ行ってきました! 櫓公開で大興奮!

 こんにちは


 GWは、遠出しようかと迷ったのですが、あえての姫路城ではなく、ちょびっとマイナーな明石城に行ってきました!



 明石城は、明石駅からすぐ歩いていけるし、公園にもなっているので遊びに行くにはもってこいですが、「お城」としては、天守がなく、いわゆる見どころが少なそうなので、城郭好きさんには物足りないかもしれません。



 でも!



 今回のGWでは、櫓の中が公開されていたりして、かなり楽しめました。






 こちらは坤(ひつじさる)櫓。






 赤い格子が見えますか?!



 こちらの面は、千鳥破風と唐破風が合体したような構成になっています。




 なんでも、この櫓凝った造りになっているのは「伏見桃山城」からの移築だからだそうです。


 なので、「秀吉」が好んだデザインになっているのだとか(^^





 






 さて、やぐらの上部には上がれなかったのですが、内部が特別に公開されていて、いろいろな資料を見ることができました!







 

 特に、古瓦が多数展示されていて、元城主の小笠原氏の「三階菱」の家紋が入った鬼瓦などを堪能(^^


 実はこの坤櫓、明石城では天守が作られなかったので、ほぼ天守の代わりとして用いられていたようです。



 なので、デザインや格式がちょっと頑張ってる感があるのかもしれません。








 一方、こちらは現存する櫓のもうひとつのほう「巽櫓」です。やっぱり坤櫓よりかは、格式が下というか、ちょっとだけチャちい感じが(^^;;



 その代わり、この付近には展望台があって、明石駅方面を見渡すことができます。



 歴史好きとしては、復元された塀の造りが気になって、思わずパチリ。


 


 しっくいの塗り固め具合が、かの姫路城の復元工事を思い起こさせます!!


 (景色より、しっくい?!)


 

 というわけで、明石城は、天守こそないものの、城郭や城壁はなかなか味わい深いので、ぜひ姫路城と比べながら訪れてみてくださいね〜。




2016年3月22日火曜日

「黙れ小童!!!!」 真田丸の室賀さんがもう見られないので、加沢記読んじゃいます!

 NHK大河ドラマ、「真田丸」の「祝言」の回。今回もドキドキハラハラ、笑いあり、サスペンスありの神回でしたが、ひとーつだけとっても重要なことがあります。



 それは!


 それは!!!


 ”黙れ小童(こわっぱ)”で日本中の真田丸ファンを沸かせてくださった







 室賀どのが死んじゃった!!!!







 ことです。しくしく(><;)





 というわけで、”歴史まにあ”なこのブログとしては、室賀殿こと「室賀正武」さまを偲んで、あえての


『原作で読みたい大河ドラマ』


ということで、いつものやつ、やっちゃいます。






近代デジタルライブラリーさんより、 加沢記
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020961


「室賀合戦のこと」(59コマ)


はじまりはじまり!!!





\\\\\\\\\\




  時は天正11年。家康から信濃一国を領土として認められようとしていた室賀どの。一方、信濃の国中を従えようとしていた真田阿波守は「室賀を討つ」と、室賀の城へ押し寄せて一発かませます。

 ところが、この時の戦いでは勝敗が決せず、「講和」ということになってしまいます。

  しかし、そこはわれらが室賀どの。けして真田阿波守の家臣になったわけではなかったのでした。



 室賀入道、真田に屈することを無念に思ひ、翌天正十二年申の六月、高井彦右衛門尉を以って遠州へ申し上げければ、家康公より何卒真田を打つべしと仰せ越せられければ、入道不斜悦び、禰々以て上田へ見舞懇切しけり。


 室賀殿は、天正12年に、家臣を遠江の家康の元へ遣ると、家康より「真田を討て」という命令をもらい、超喜んだのです。





 或時上方より囲碁の上手上田へ来りければ、室賀入道を招請有ければ入道能時節と心得、日限を定められて同苗孫右衛門を以て来月七日真田が居城へ其会に参候、其時昌幸を討取らんと存候間、御加勢被下候様にと鳥居氏の方へ申し遣しけれども、孫右衛門内々房州へ志を通じたりし故、直に上田に来り此由申しけり。



  あるとき、関西から囲碁の名人が上田に来たというので、室賀殿は「これはチャンスだ」と考え、日時を決めて「囲碁の会」の折りに昌幸を討ち取ろうと策略し、同族の室賀孫右衛門にその段取りをさせようとしていたのですが、孫右衛門は、真田側に通じており、そのまま上田に行って暗殺計画を漏らしてしまったのです。




  昌幸公悦び、孫右衛門を馳走してぞ帰しける。入道仕済したりと思ひ、家の子桑名八之助、相澤五左衛門尉、堀田久兵衛など相随ひ上田へ被参りければ兼ねて用意の事なりければ書院に招請して囲碁をぞ始めける。

 

 真田昌幸は、孫右衛門の報告を喜び、充分に労って帰しました。室賀殿は、「これで準備は整った」と思い、家臣などを連れて上田へ現れ、用意の通り囲碁を始めたのでした。




 其時、長野舎人木村戸右衛門討手に極め、相は禰津宮内太夫麻利子藤八郎、長命寺、安楽寺なり。長野木村次の間より太刀抜き出、室賀兵部太夫を無情も殺しけり。桑那相澤堀田聞より早く殿中に切入って散々に戦ひける。縦令三項羽が勇を顕したりと雖も、多勢の敵に取巻かれ、遂に生け捕りにぞ成りにける。右三人後には心を変じて真田に仕へ、無二の忠をぞ尽しける。此時八之助深手を負ふ。さて室賀にては此由を聞き妻子共取者も不取敢早々甲州へ落行ける。



  その時、真田側の長野と木村が隣の部屋から乱入し、室賀殿を無情にも殺してしまったのです。室賀殿の従者の三人も、これを聞きつけ戦いましたが、大勢に取り囲まれてついに生け捕りにされてしまったのでした。

 この三人はのちに心を入れ替え、真田の忠実な家臣となったのですが、室賀の国もとでは、妻子や関係者はみな、取るものもとらずすぐに甲斐の国へと逃げてゆきました。





\\\\\\\\\\



 とまあ、原作ではこんな感じです。



 真田パパは、何をしとったんか全然出てこないし、愛しの出浦様も




 まったく出てきません!!!!!




 ましてや、きりちゃんは姿形もありません!!!!




 なーんて(^^



 
  大河ドラマ、真田丸での「祝言」シーンはなかったですが、「囲碁ネタ」は本当だったのね!ということがわかったところで、ちょっと満足ですね!


 





2016年2月23日火曜日

忍者、見つかりました! 〜88軒も見つかった忍者の子孫〜



 先日も、滋賀県で忍者の子孫を探しているニュースをこのブログで取り上げたのですが、なんと!


 見つかった(笑)


そうです。




 滋賀県甲賀市、88世帯で忍者の子孫を発見
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160222-00005257-lmaga-l25




 ニュースによると、甲賀五十三家にアンケートを取って、忍者にまつわる資料などが残っていないかどうか尋ねたそうなのですが、




 古文書!



 手裏剣!



  忍者しか使わない家紋入り鎧!



などが見つかったそうです。うらやましいなあ!





 前回のブログに、忍者の可能性がある53の名字を掲載しているのですが、


  http://jpn-history.blogspot.jp/2016/01/blog-post_30.html



 残念ながらeineさんの家は忍者とは無縁のようで、もし滋賀県にゆかりのあるみなさんがおられれば、一度忍者かどうか、名字を付き合わせてみてくださいね!!





 ちなみに、忍者の子孫だと示す文書が出てきたおたくのご主人は、今は農業で、



「忍者の子孫だとは、まったく知らなかった」



とおっしゃっているとか!



 ぜーんぜん気付かずに暮らしておられる子孫の方も、たくさんいそうですね!



2016年2月18日木曜日

真田丸のお姉ちゃん、「まつ」が行方不明になる件の元ネタが話題に。 〜加沢記を読んでみましょう〜

 NHK大河ドラマの真田丸はとっても人気のようですが、(もちろんeineも見ています)前回の土曜日の放送では、



 安土から逃げる際に、真田信繁のお姉ちゃんの「まつ」が湖に飛び込んで行方不明になる話



をやってました。


 なんとまあ、お姉ちゃん「松」こと木村佳乃さんは、




 記憶喪失



になっている場面も出てきて、かなりドラマチックだったのですが、どうも脚本だけじゃなくて本当に行方不明になっていた説があるようで。




 村松殿は、 寛永7年(1630)6月20日に66才で亡くなって、松代の長国寺に葬られたらしいので、たしかにあのまま滋賀県琵琶湖に落ちて死んでいたら、話が合いません。



 そのあたりの経緯を、「加沢記」から読んでみたいと思います。



 近代デジタルライブラリー「加沢記」
  http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020961



 まず、加沢記について説明しておきましょう。


 沼田真田藩に、加沢平左衛門という藩士がいて、江戸初期の人です。話の内容は戦国時代からの真田氏の動乱の歴史をまとめたものですが、本人が見聞きしたというよりも、老人たちから聞き取りをして、史料を集めたり現地を歩いたりしながら編纂したものだと考えられています。


 記録されている期間は、天文10年(1541)〜天正18年(1590)で、49年間の真田の歴史をまとめています。



 上記リンクでは、51コマと52コマのあたりが「まつ」が行方不明になった話が出てきます。


  信長が死んで、安土が大変なことになった後の部分です。


\\\\\\\\\\
 

「 ・・・安土へ遣わされける御娘子様の御行方(衛)無りければ、昌幸公御母公の御嘆き更に止時なかりければ御一門家老の人々(略)御落涙の外はなかりけり」


 安土城へ人質になっていた松様の行方がわからないので、昌幸公や母君のお嘆きは止まることがなかった。一族や家中の人たちもただ、涙を流すだけだった。



 \\\\\\\\\\


「 翌年の春、桑名の渡し守が許へ下郎等走り入りて休息しければ、二十斗(ばかり)の女房走り出で、(略)さめざめと泣いて信濃と聞くはなつかしや、自も信濃の者なるが子細有て此国に有つるが、本国なれば母を一人持侍る、在所は上田の城と御申し有けるが取直し上田の城町の喜兵衛と申す者の所へ御届候へとて紙包ひとつ渡されける」


 翌年の春、桑名の渡し守の所で足軽たちが休息していると二十歳くらいの女性が走り出て、涙を流して「みなさんは信濃からですか。なつかしいことです。私も信濃の出ですが、いろいろあってこの土地におります。実家には母が一人いるはずです。出身は上田城なので、上田の城下にいる喜兵衛という人間にこれを届けてはくれませんか」と手紙をお預けになった。


\\\\\\\\\\


 もう、これでこの女性の正体がわかりますね!行方不明になっていた「松」こと木村佳乃さんです!!


 これで、この足軽は言われた通りに上田の城へ手紙を持ち帰り、報告するのでした。


 しかし、喜兵衛とは言われたものの足軽大将は怪訝に思います。

「いや、喜兵衛とはその女が申したらしいが、城主昌幸さま以外に「喜兵衛」と名乗る者はいないはずだ。」


慌てて彼が紙包みを開けると、そこにはなんと姫君まつ様からの文が入っているではあーりませんか!!


☆なかなか読ませる場面ですが、真田昌幸は「武藤喜兵衛」の名で武田信玄に仕えていたのです。そのあたりを絡ませてくるところが、ちょっとにくいね。



\\\\\\\\\\


「・・・早々桑名へ御人を被遣、渡し守に御褒美被下、御迎取りあそばしける。渡し守安土の乱に奪捕ければ大切に存じ深く隠密したりけり、あさましき有様にて二とせのうきめのほど、思いやられて御いたわしく聞く人ことに哀は増すばかり。後に小山田殿の御内室に成り給ひけるとなり」


 さっそく桑名へ人をやって、渡し守に褒美をつかわし、(姫を)お迎えになった。渡し守は安土の乱の時に(姫を)捕まえたのだけれども、大切に思って隠していたのである。ひどい状況で二年も大変な目に遭ったのだと、その話を聞いた人はみな哀れに思うばかりであった。彼女は後に、小山田さまの奥さんになったそうである。




 ・・・ん?


 ・・・んんん?


 ・・・んんんんん???


 最後にさらっと恐ろしいことが書いてあるのに、みなさんは気づきましたか?(笑)


 まつさま、まだこの時は小山田さまとは結ばれてないらしいです!!!(爆)



 さすがは三谷さん。話がおもしろくなるように、書き換えてますねーーーー!!!


2016年2月8日月曜日

日本で最初のゾンビ?!あるいは日本式フランケンシュタインの謎を追え! japanese zombie!

 こんにちは。日本の歴史の変なところをツツいているeineです(^^

 先日から、このブログの姉妹ブログの「名字まにあ」のほうで、佐藤さんの名字のルーツについて調べていたのですが、その中で、



 かなーり気になる変てこな話



を見つけてしまったので、今日はそんな話を。


 なんと!日本で最初のゾンビ・フランケンシュタインのお話です。


 

 そのお話、もともとは佐藤さんのルーツを調べていたときに、ネタが上がってきました。



 佐藤さんのルーツ
  http://myoujimania.blogspot.jp/2016/01/blog-post_29.html


 この中に、歴史上の有名人「西行法師」という人がいるのですが、この方にまつわるこんな話があるのです。





 撰集抄「西行高野山において人形をつくる事」(第5)



” 西行が高野山の奥に住んでいたころのこと。

 友人が遠くへ行ってしまってさみしくなったので、風流を理解してくれるトモダチがほしいなあ、と思って鬼が人骨を集めて人を作るように、トモダチを作ってみようと考えるようになった。


 作り方の術は、人から聞いていたので、野原で骨を拾って並べて作ってみたが、人間の可たちのようで、やっぱりどこか違う。

 声は楽器が鳴っているようだし、壊れた笛がひゅーひゅーなるだけのように声を出すだけだった。

 
 ぶっちゃけうまくいかなかったので壊してしまおうとも思ったが、それも人殺しみたいだし、結局高野山の山奥へ連れて行ってほったらかしにしてしまった。


  あとで、伏見中納言に、うまい人造人間の作り方を尋ねたら、私のやった方法をひとしきり聞いた後、


「だいたいOKだけど、香を焚いたら仏の功徳で魔物が逃げてしまうので、香をつかわず沈と乳を代わりに焚けばうまくいくよ」


と教えてくれた。


 まじっすか。”





\\\\\\\\\\



 訳は、eineさんの超訳です(^^;


 西行法師は、本名を佐藤義清という武士で、平安末から鎌倉時代にかけて活躍しました。

 藤原姓武士の総本家である、藤原秀郷の9世孫だそうなので、かなり本流の藤原氏ですね。


 もとは鳥羽上皇の北面の武士でもありましたが、出家後は放浪の旅に出たそうで。


 「撰集抄」は、西行作とされていますが、実際には作者不詳だそうです。




  ・・・とまあ、ここまでは歴史マニアとしては入門編ですね。


 ここからはちょっとだけ背伸びして大学レベルのお話を添付しておきます。



岩手大学教育学部研究年報 より 中村一基さんの論文

 「中世の人造人間説話の変容をめぐって」

 http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/1769/4/erar-v61n1p98-106.pdf
 


 こちらの論文では、西行の人造人間(ゾンビちゃん)の話にいくつかのポイントがあることを教えてくれます。



1)高野山に納骨する風習があり、それを西行が担当していたらしいこと。


2)反魂の術、というアンチ仏教的なワザ(おそらくは陰陽的な?)があったこと。



 また、論文には、安倍晴明が死んで復活する話や、芥川龍之介の”羅生門”に出てくる老婆が髪を抜こうとした遺体の話まで、死者と人造人間についてのいろんな考察が出てきます。


 ちょっとおもしろい(^^



 ちなみに、どうしてもゾンビを作りたい方は、


 早稲田大学さんのページ

 

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he12/he12_01708/index.html


がよみやすいほうだと思われます。うふふ。

2016年2月4日木曜日

【名所】 武家屋敷にハマっています 〜三草藩旧尾崎邸へ行ってきました〜

 こんにちは


 うちの家は、平成になってから建てられた建物なのですが、おもしろいことに「書院造り」になっていて、付け書院が窓側に作られているんです。


 そんなことから、昔の建物とか、武家屋敷の造りとかに興味があるのですが、今回は、兵庫県加東市の



 三草藩武家屋敷(旧尾崎邸)



へ遊びに行ってきました。


 


  武家屋敷というのは、本当は格式の高い武士のお屋敷で、中級以下の藩士の屋敷は「侍屋敷」というそうですが、今となってはほんまものの武家屋敷がほとんど残っていないので、侍屋敷のほうが一般的になっているそうです。


 三草藩(兵庫県加東市)は小さな藩なので、武家屋敷といってもこじんまりとしていますが、それでも玄関には式台がついていてそれなりの格式を備えています。



 上の写真で、玄関のような入り口が右と左と並んでいるのがわかりますか?


 左が客人を招くときの式台、右が通常の出入り口になっていて、かまどのある台所へ直結しています。



 


全体的には、平屋でコンパクトな感じ。



でも、




けっこう広い中庭があって、井戸や、写っていませんが納屋(蔵)のようなものが付随しています。


 詳しい住所などのデータはこちらに。↓


 
じゃらんnet 三草藩武家屋敷




 古い武家屋敷などを見ていると、日本のおうちの基本的な造りがとても共通していることがよくわかりますね。


 だいたい、入って右側に台所や風呂があって、左側に2×2を基本にして畳の間が4つ並んでいる、という感じ。



 今度は別の武家屋敷におじゃまして比較してみますね。

2016年2月2日火曜日

もうすぐ節分!豆まきの発祥ってどこか知ってますか? 〜豆まきが誕生した場所で、はじめての節分祭開催だそうです〜



 こんにちは。



 京都新聞さんに、おもしろい記事が載っていたので、思わずメモめも。


 

発祥伝承地で豆まき復活 京都・深泥池貴舩神社

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20160202000080 

 

 

 ん?発祥伝承地ってどゆこと?と思ってよく読んでみると、まず、豆撒きというのは、私たちのあんまり知らない、

 

 京都、上賀茂の奥のほうにある ”深泥池貴船神社” 

 

というところが発祥なんだそうです。

ちなみに、「貴船」という名前でピンとくる方もたくさんおられると思いますが、この神社は、京都の鞍馬にある「貴船神社」の分社なのだとか。


 でも、ちょっとややこしいのですが、深泥池の貴船神社は、江戸時代になって分社されているので、豆撒きが江戸時代に始まったというには遅すぎですよね。


 豆撒きそのものは、平安時代からある風習なので、話が合いません。



\\\\\\\\\


 というわけで、ちょびっと解説を。


 まず、豆撒きそのものは、やっぱり鞍馬の本家「貴船神社」に関係があります。


 その貴船地域から、今回話に登場する「深泥池」まで何か抜け穴というか、不思議な地下通路がつながっている、という伝説がまず存在するところがポイントです。


 深泥池に、のちに貴船神社の分家さんができるのは、そういう元ネタがあるからなのです(^^




 さて、 その抜け穴を通って、貴船地区から深泥池まで鬼がやってきて、鬼が穴から出てくるので、その穴に向かって豆を投げてふさいでしまおう、というのが本来の豆撒きなのだそうです。



 あるいは中世の御伽草子「貴船の本地」では、

(京都大学図書館蔵 きふねの本地)

http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/otogi/html/c26.html


 ”節分の日に現れた鬼を、煎り豆で目を狙って打って退散させる”


という話が出てくるので、これも豆撒きの発祥とされています。




 しかし、どちらも”鬼は鞍馬と関係ある”ことになっているので、このあたりは気になりますね。


 のちに天狗も鞍馬にいることになってますので、鞍馬という山は異境だったのでしょうか。



 京都の奥といえば、丹後方面の”大江山の鬼”や酒呑童子の話も有名ですが、やっぱり昔の人にとって山奥は恐ろしいところだったのかもしれません。





 

2016年2月1日月曜日

NHK大河ドラマ真田丸の真実。 真田兄弟は入れ替わってた? 〜大泉洋が弟で、実は堺雅人がお兄ちゃん?〜

 こんにちは


 歴史好きにとっては、毎週見逃せない大河ドラマ「真田丸」ですが、ドラマにちなんで、


「真田家の子孫と、徳川家の子孫が対談する」


というビッグな企画があったそうです(^^


(画像はNHKさんが出典です)


真田・徳川家の子孫が明かす「謎と真実」

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/47582 

 

 現代ビジネスさんというサイトに その対談が載っているのですが、なんと!


 お兄ちゃんの真田信幸が実は弟で、弟だと思われている信繁が本当は兄だった説

 

 があるというのです。

 

 わかりやすくビジュアルで説明すると、「大泉洋が実は弟、堺雅人が実はお兄ちゃん」ということですね!(^^;

 ちなみに、堺雅人さんは1973年10月生まれで、 大泉洋さんは1973年4月生まれですから、



 ほとんどかわんない!



のですが(笑)真田信幸と信繁も、1歳しか年が違わなかったそうですからこの配役はアリということで(^^

 

  …それにしても、大泉さん落ち着いてますが、堺さん落ち着きないです。演技的には。

 (しかし、落ち着き払っている堺さんも、何か変ですね。逆に落ち着かないwww)

 

  話がとびました。兄、弟入れ替わり説の典拠は

 

「兄が源三郎で弟が源次郎」

 

ということもあるようです。それに、信繁の方が格上の奥さんを貰っているとか、気になる点がいくつかあるようで。

 

 うーん、真実はどうだったのか。気になります。

 

 

 

 

2016年1月30日土曜日

忍者の子孫を探しているらしいですよ! 〜 <甲賀>市民対象「あなたは忍者の子孫か」アンケート 〜 この名字だと忍者の可能性あり?!

 なんとまあ!21世紀になろうというこの現代に



 忍者!



を本気で探すプロジェクトがはじまったそうです。それも市役所さんが音頭をとって。




  <甲賀>市民対象「あなたは忍者の子孫か」アンケート




 甲賀忍者の郷である滋賀県甲賀市さんが、市民に本気でアンケートをとって


「あなたは忍者の子孫ですか?」とか

「なにか伝わっているものはないですか?」とか


そういうことを調べているそうです。




 なんでも、甲賀忍者には、「甲賀武士五十三家」という人たちがいて、この53家と同じ名字の人が、対象になるというから本気ですね〜。


 何か新しいものが見つかったら、すごく楽しいと思います。(貴重な資料でもあるし)



 甲賀市には忍者屋敷もあるそうなので、いってみたい・・・。じゅるる。







  で、名字まにあでもあるeineさんとしては、その53家の名字がかなり気になったので調べてみました!!


 1 山中


2 伴

3 美濃部

4 黒川

5 頓宮

6 大野

7 岩室

8 茶川

9 隠岐

10佐治

11神保

12大河原

13大原

14和田

15上野

16高嶺

17池田

18多喜(滝)

19鵜飼

20内貴

21服部



ここまでが、甲賀二十一家だそうです。


で。残りが・・・。



 22小泉

23倉冶

24夏見

25杉谷

26針

27小川

28大久保

29上田

30野田

31岩根

32新城

33青木

34宮島

35杉山

36葛城

37三雲

38望月

39牧村

40八田

41高野

42上山

43高山

44守田

45嵯峨

46鳥居

47平子

48多羅尾

49土山

50山上

51饗庭

52長野

53中山




・・・うちの親族には、おなじ名字が一人としていない!!!


 ということでeineさんは忍者ではなさそうです(笑)

 

2016年1月28日木曜日

「歴史人」ホームページがすごい! NHK大河ドラマ「真田丸」だけに真田氏の子孫が語っちゃいます!

 こんにちは。

 私なんかはまだまだ歴史に興味を持って日が浅いので、いわゆる「歴女」なんて名乗るのはおこがましいほどなのですが、世の中にはたくさん歴史に関するお勉強になるサイトがあるので、今日はその中から



 歴史人 さんのサイト


をご紹介したいと思います。


 このサイト、というか本当は雑誌なのですが、サイトの連載もしっかりしていてとっても勉強になるので、重宝しています。



 たとえば、こんなコーナーがあるのでみなさんもご参考に。



  宇野藍子の「古文書入門・くずし字の読み方」



 おおお!すごいですね〜。まさに歴史通な感じがしてきますよ。くずし字、というのは簡単にいえば変体かなで、むかしの書き方なのですが、現代人のわたしたちから見ると



 まさに!みみずが這ったような文字


にしか見えません。


 それを読解するには、いろんなコツがあるよというお話。





 あるいは、




 日本刀の真実



のコーナーも気になります。刀剣なんちゃら、から歴史好きになる方もおられますしね。




 個人的には、



 高澤等の戦国武将の家紋


のブログも好きです。家紋は奥深いので、そう簡単には理解が進みません。





 そして、何と言っても、今年はこのコーナーに注目です!!

 
 堺雅人さん主演で盛り上がっているNHK大河ドラマ「真田丸」ですが、なんと




 



というコーナーがあるのです!!!こりゃたまげた。



 というわけで、歴史人さんの回し者に誤解されかねない、サイト紹介でした!


2016年1月19日火曜日

豊臣秀頼の息子は生きていた?!大阪城から脱出した国松の行方は・・・・!

 NHK大河ドラマ「真田丸」はいよいよ2話を終えて視聴率も20%を越えてきたそうですが、私も毎週楽しみに見ています(^^


 その真田氏の最期に関わるちょっと不思議な話が、週刊朝日さんに出ているそうで。





 下家19代当主・木下崇俊「大坂の陣で殺された豊臣秀頼の遺児が生きていた?」〈週刊朝日〉
 http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160119-00000002-sasahi-peo



 出典はdot.さんから。



 大阪夏の陣で豊臣家は滅び、秀吉の子秀頼も母の淀君と自害した、とされているわけですが、実は真田氏の手引きで秀頼の子「国松」が九州へ逃げたのではないか?という説が、実はかなり信憑性が高そう、というお話。


 まさか、NHK大河ドラマではその説で物語が進むことはないと思いますけど、



♪「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」


という童謡が、当時の京では流行したとかしないとか(^^



 今回の朝日さんの記事にもありますが、秀頼あるいは国松は、真田氏の手引きで大阪を脱出。その後、薩摩に入ったとか、あるいは大分に定着したなどの伝説が生まれています。


 ポイントになるのは「豊後国日出藩」をおさめた木下氏で、日出藩初代の木下延俊の次の代になるときに


1)父は遺言で二代藩主、木下俊治に2万石で、弟の延由に1万石を譲ろうとしたが、計3万石しかないなかでのその分領は、ありえないくらいの高待遇だった。


2)家臣の機転で、結局5000石に分領は落ち着いたが、1万石だと幕府に目をつけられるので、家臣はわざと5000石に下げた。


3)幕府には「延次」が分領されたと嘘の報告をしている。父の遺言を聞いた家臣は、相続がすべて終了したのを見届けて自害した。


ということがあったようで、これらはすべて



”延由は実は国松だったのではないか”


ということの裏返しのようです。


 延由が国松だったとすると、木下延俊が破格の待遇で領地を分けようとしたことや、家臣が主君の命に背き、かつ国松の安泰を見届けてから詫びて切腹したこと、木下藩がうその報告をあげていること、などの説明がつくそうです(><



 Wikipedia 木下延由
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E5%BB%B6%E7%94%B1



 これが本当だとすると、かなりのミステリーですね!!




 ちなみに、こちらには、「木下家」の当主がどんな言い伝えを聞かされてきたかがじっくり紹介されていますよ!




 「敗軍の将」の末裔が明かす大名家に伝わる極秘の言い伝え
 http://dot.asahi.com/wa/2015082800017.html

 


2016年1月16日土曜日

【名所】謎の”朝光寺”へ潜入?! 法道仙人、ここにもあらわる

 こんにちは


 前回は、兵庫県加東市の「播州清水寺」へお参りしてきましたが、おなじ「法道仙人」が開基の謎のお寺へ潜入してきました!



 その謎のお寺、まずは山門から本堂を覗いた姿がこれ。

 



 えらくアップになっていますが、遠景からの写真が撮れないのです!(><;


 なぜなら、わたしの背後はすぐ崖のような急階段で、階段を登りきったところにお寺の門があるからです。ひぃー。




 行ったお寺は、おなじく兵庫県は加東市の「朝光寺」というお寺です。







 こちらは本堂の写真。


 初詣には、こちらのお寺にもたくさんの方がお参りされるようですが、さすがに少し時期がずれると人っ子ひとりおられません(^^;


 がらーん、って感じ。


 というわけで、例によってお寺データを!





■ 鹿野山 朝光寺

■ 兵庫県加東市畑609

■ 高野山真言宗

■ 開基は法道仙人 651年

■ 国宝の本堂は応永20年(1413年)に建立。

■ 鐘楼は国の重要文化財

■ 本尊は十一面千手観音




 やっぱりこちらも播州清水寺とおなじく謎のインドの仙人「法道仙人」が開基です。


 だいたい兵庫県の山の中にあるお寺は、法道さんが開基(^^



 


 さて、こちらが国の重要文化財になっている鐘楼(鐘つき堂)です!


 なかなかスマートでかっこいいです。



 


 もうひとつ、二重塔ならぬ「多宝塔」が建っていて、こちらは県の指定文化財になっているそうです。


 お寺にある「仏塔」といえば、一般的には「五重塔」とか「三重塔」が有名ですが、この「多宝塔」の形式も由緒正しき仏塔です。


 違いはどこか?


 多宝塔さんは、一階部分が四角くなっていて、二階部分が円形にまるーくなっているのが特徴です。


 そしてまた、屋根は四角くなっています。


 この形式を「多宝塔」と呼ぶのだそうです。





 一方、三重の塔とか五重の塔は、全部四角です。丸い階層がないのです。


 個人的には、東南アジアに残る「ストゥーパ」(本来の仏塔)のデザインである円形っぽさを残している多宝塔のほうが、好きな感じです。


 みなさまはいかがでせうか?






 さて、この朝光寺、現在は誰もいません。がらーんとしています。管理なさっているのは、本来はこのお寺の院坊であった「吉祥院」さん(少し離れた場所にあります)が寺務所をお勤めのようですが、本堂周辺は無人状態。


 でも、御堂に靴を脱いで上がれるので、ほぼ無音の堂内で精神統一をするのには持って来いの穴場だと思います。


 かなり荘厳な気持ちになれますよ!!!



 

2016年1月15日金曜日

【名所】播州清水寺へ行ってきました! 〜加東市〜

 こんにちは


 今年の初詣はどこにしようかかなり悩んだのですが、どこへ行っても人だかりなのはわかっていたので、マイナーなところ!を選択。


 ・・・そのつもりでしたが、やっぱりたくさんの初詣の方でいっぱいでした。ちと疲れた。


 

というわけで、今年お参りしたのは、「播州清水寺」というお寺です。

 兵庫県は加東市にあります。



 今回はじめて行ったのですが、なんと山のてっぺんにお寺があって、そこまでは専用のドライブウエイを車で走ってゆく、という仕組み。


 山の頂上に、逆に駐車場があってそこにたくさん車を停められるようになっていました。


 「清水寺」といえば京都の東山の清水さんが有名ですが、兵庫県とくに播磨地区では、こちらの「清水寺」も負けてはいないようです。


 本堂というか、講堂はあまりの人の多さで写真を撮れなかったので、「根本中堂」を写真におさめてみました。

 まだ、こんだけ登らなくてはいけません。



 人が多いので、個人情報のためモザイクをかけさせていただいておりますが、真ん中へんにちょこっと見えるのがお堂(笑)・・・見えへん。



 ブログにするのなら、もっとたくさん写真をとっておけばよかったと思います。これから気をつけよう!






 というわけで、「播州清水寺」のデータを。






■ 御嶽山 播州清水寺

■ 兵庫県加東市平木1194

■ 天台宗

■ 開基は法道仙人 (古墳時代)

■ 627年に推古天皇が根本中堂建立。

■ 本尊は十一面観音





 なんでも、日本に仏教が伝来する前からあるそうです。なんでやねん!とつっこみたくなりますが、開基の法道仙人というのはインドからやってきた謎の人物で、どうやら仏教というよりは山岳密教みたいなものを伝えた方だったのかもしれません。


 兵庫県には、この法道仙人の伝説が残る謎の寺がやたらあるのです!


 それも全部山の中ばっかり。


 修験道、というにはもっと古い形態の山岳信仰とかに関わりのある人なのかもしれませんね。


 いずれ、謎をといてみたい(ニヤリ)



ブログはじめました。 

 はじめまして。

 日本の歴史や文化について、訪ねた名所旧跡や、思うことについてちょこちょこ書いてゆくつもりです。

 よろしくお願いします。




 2016年のはじまり、ということもあって、やっぱり一番今気になるのは、NHK大河ドラマの「真田丸」。

 第一回が終わったところですが、続きが”超”気になります。




 残念ながら、ドラマの舞台である長野県には行ったことがありません。どちらかというと関西地方に強いので、あちらは全然ダメです。


 ドラマ終盤の「大阪城」がメインになると、関西は盛り上がるのかな?!


 とはいえ、まだ大阪城にも行っていないので、そのうちこのブログでもレポートすると思います(^^


 なんでも、真田丸の正確な場所も今だによくわかっていない、とのこと。現地では何か発見があるのでしょうか?謎ナゾ!



 というわけで、ぼちぼち記事を増やしてゆきますので、ご贔屓に。