NHK大河ドラマの真田丸はとっても人気のようですが、(もちろんeineも見ています)前回の土曜日の放送では、
安土から逃げる際に、真田信繁のお姉ちゃんの「まつ」が湖に飛び込んで行方不明になる話
をやってました。
なんとまあ、お姉ちゃん「松」こと木村佳乃さんは、
記憶喪失
になっている場面も出てきて、かなりドラマチックだったのですが、どうも脚本だけじゃなくて本当に行方不明になっていた説があるようで。
村松殿は、 寛永7年(1630)6月20日に66才で亡くなって、松代の長国寺に葬られたらしいので、たしかにあのまま滋賀県琵琶湖に落ちて死んでいたら、話が合いません。
そのあたりの経緯を、「加沢記」から読んでみたいと思います。
近代デジタルライブラリー「加沢記」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020961
まず、加沢記について説明しておきましょう。
沼田真田藩に、加沢平左衛門という藩士がいて、江戸初期の人です。話の内容は戦国時代からの真田氏の動乱の歴史をまとめたものですが、本人が見聞きしたというよりも、老人たちから聞き取りをして、史料を集めたり現地を歩いたりしながら編纂したものだと考えられています。
記録されている期間は、天文10年(1541)〜天正18年(1590)で、49年間の真田の歴史をまとめています。
上記リンクでは、51コマと52コマのあたりが「まつ」が行方不明になった話が出てきます。
信長が死んで、安土が大変なことになった後の部分です。
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「 ・・・安土へ遣わされける御娘子様の御行方(衛)無りければ、昌幸公御母公の御嘆き更に止時なかりければ御一門家老の人々(略)御落涙の外はなかりけり」
安土城へ人質になっていた松様の行方がわからないので、昌幸公や母君のお嘆きは止まることがなかった。一族や家中の人たちもただ、涙を流すだけだった。
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「 翌年の春、桑名の渡し守が許へ下郎等走り入りて休息しければ、二十斗(ばかり)の女房走り出で、(略)さめざめと泣いて信濃と聞くはなつかしや、自も信濃の者なるが子細有て此国に有つるが、本国なれば母を一人持侍る、在所は上田の城と御申し有けるが取直し上田の城町の喜兵衛と申す者の所へ御届候へとて紙包ひとつ渡されける」
翌年の春、桑名の渡し守の所で足軽たちが休息していると二十歳くらいの女性が走り出て、涙を流して「みなさんは信濃からですか。なつかしいことです。私も信濃の出ですが、いろいろあってこの土地におります。実家には母が一人いるはずです。出身は上田城なので、上田の城下にいる喜兵衛という人間にこれを届けてはくれませんか」と手紙をお預けになった。
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もう、これでこの女性の正体がわかりますね!行方不明になっていた「松」こと木村佳乃さんです!!
これで、この足軽は言われた通りに上田の城へ手紙を持ち帰り、報告するのでした。
しかし、喜兵衛とは言われたものの足軽大将は怪訝に思います。
「いや、喜兵衛とはその女が申したらしいが、城主昌幸さま以外に「喜兵衛」と名乗る者はいないはずだ。」
慌てて彼が紙包みを開けると、そこにはなんと姫君まつ様からの文が入っているではあーりませんか!!
☆なかなか読ませる場面ですが、真田昌幸は「武藤喜兵衛」の名で武田信玄に仕えていたのです。そのあたりを絡ませてくるところが、ちょっとにくいね。
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「・・・早々桑名へ御人を被遣、渡し守に御褒美被下、御迎取りあそばしける。渡し守安土の乱に奪捕ければ大切に存じ深く隠密したりけり、あさましき有様にて二とせのうきめのほど、思いやられて御いたわしく聞く人ことに哀は増すばかり。後に小山田殿の御内室に成り給ひけるとなり」
さっそく桑名へ人をやって、渡し守に褒美をつかわし、(姫を)お迎えになった。渡し守は安土の乱の時に(姫を)捕まえたのだけれども、大切に思って隠していたのである。ひどい状況で二年も大変な目に遭ったのだと、その話を聞いた人はみな哀れに思うばかりであった。彼女は後に、小山田さまの奥さんになったそうである。
・・・ん?
・・・んんん?
・・・んんんんん???
最後にさらっと恐ろしいことが書いてあるのに、みなさんは気づきましたか?(笑)
まつさま、まだこの時は小山田さまとは結ばれてないらしいです!!!(爆)
さすがは三谷さん。話がおもしろくなるように、書き換えてますねーーーー!!!
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